高師直が「天皇や院は金や木の像でいい」と述べたのは事実なのだろうか?
世に傲岸不遜な人物はいるが、高師直もその一人と思われており、「天皇や院は金や木の像でいい」と述べたといわれている。はたして、本当に師直はそんなことを言ったのだろうか?改めて考えることにしよう。
師直は、師重の子として誕生した(生年不詳)。正慶2年(1333)、足利尊氏が上洛すると、一族を引き連れて従った。尊氏は後醍醐天皇の命により、鎌倉幕府を滅亡に追い込む立役者の一人となった。その後、成立したのが建武政権である。
しかし、建武政権は支持を得ることができず、建武2年(1335)に崩壊した。こうして尊氏は室町幕府を開幕すると、師直は将軍家の執事となり、引付頭人や恩賞方頭人も歴任することになった。以降、師直は尊氏とともに、各地を転戦したのである。
やがて、師直は直義(尊氏の弟)と対立するようになった。貞和5年(1349)、師直は尊氏に対して、直義を政務から外すよう強く迫った。翌年、直義は「反師直」の諸将を集め、尊氏、師直に戦いを挑み、見事に勝利したのである(観応の擾乱)。
結果、敗北した尊氏は、師直を出家させることを条件にして直義と和議を結び、事なきを得た。観応2年(1351)、師直は一族もろとも、直義派の上杉能憲に討伐されたのである。
師直は「若王ナクテ叶フマジキ道理アラバ、木ヲ以テ造ルカ、金ヲ以テ鋳ルカシテ、生タル院・国王ヲバ何方ヘモ皆流シ捨テ奉ラバヤ」と豪語したという(『太平記』)。これは、師直が既成の権威を軽視した言葉として知られている。
亀田俊和氏は、それは誤りであると指摘する。この言葉は、反師直派の上杉重能・畠山直宗と関係が深い僧の妙吉が直義に讒言したものであって、事実とは相違するという。つまり、師直が言ったのではなく、まったくの虚偽だったのである。
以降、師直は伝統的な権威に屈しない、新しいタイプの人物のように思われているが、それは再検討の余地があるようだ。『太平記』はほかの箇所でも、師直を好意的に描いていないと考えられる。
主要参考文献
亀田俊和『高師直 室町新秩序の創造者』(吉川弘文館、2015年)。
亀田俊和『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』(中公新書、2017年)。