徳川家康が瀬名と松平信康を処分したのは、織田信長の命令ではなかった
大河ドラマ「どうする家康」では、瀬名と松平信康が死んだ。その後、徳川家康は2人を処分したが、それが織田信長の命令によるものだったのか否かを考えてみよう。
通説によると、徳川家康が瀬名と松平信康を処分したのは、織田信長の命令によるものとされてきた。近年、そうした見解は後退し、新説が提起されているので紹介することにしよう。
天正3年(1575)以降、家康は織田方の一員として武田氏を攻略することに苦労していた。戦争は長期化したので、負担も大きかった。一方の武田氏は御館の乱(上杉謙信没後の家督争い)の影響により、北条氏とも敵対するなど不安要素を抱えていた。
追い詰められた武田氏は、信長との和睦を模索し、家康との敵対関係を見直そうとしていた。信康と築山殿が武田氏に接近した理由は、こうした武田氏の政策転換にあり、武田氏と結ぶことで活路を見出そうとしたと指摘されている。
一方、武田氏と敵対した北条氏は、家康に急接近していたので、家康と信康らの考えは対立していた。家康はあくまで反武田氏だったが、信康は武田氏との接近を図ったのだ。徳川家中は対武田氏の政治路線を巡って、2つに割れたので崩壊する危機にあった。
結果、家康自身が信康に真意を問い質し、自害を命じたという。それは、信康に加担した築山殿に対しても同じだった。ゆえに、2人の処分は信長の命令ではなく、家康の判断に拠るものだったと指摘されている。家康は信康らを処分したうえで、親信長路線を明確にし、家中の結束を強めたのだ。
したがって、信康らの殺害事件は決して信長から命じられて、家康が泣く泣く信康らを処分したものではない。家康は信長に従って武田氏討伐の方針を堅持し、反対する信康らの存在が家中分裂、つまり徳川家の崩壊につながると予想し、敢えて信康らを切ったのである。
こうした例は徳川家だけではなく、当時の戦国大名に見られた事例でもある。方針をめぐって家中が分裂が予想される場合は、一方を処分することで、家中の一体化を図ったのである。それが親子、兄弟であっても容赦しなかった。
家康による信康らの殺害事件は、あくまで徳川家中の問題だった。苛烈な性格だったという信長の命令ではなく、それは後世に成った単なる逸話に過ぎないのである。
主要参考文献
柴裕之『徳川家康』(平凡社、2017年)