iPhone誕生のきっかけを作った日本〜スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(6)
[前回までのあらすじ]奇しくもSonyショックの三日後、ジョブズはiTunes Music Storeを発表。自ら大物アーティストの賛同を漕ぎ着けていたことで、Mac版だけにも関わらずそのニュースは熱狂を持って世界を駆け巡り、音楽配信の時代が始まった。いよいよWalkmanを乗り越えるべき時が来た、と見たジョブズは総攻撃を決意。Windows版iTunesを用意してSonyのお膝元、日本市場へ攻め込もうとするのだった。
■CMで革命を起こすのがジョブズ流
「俺の目が黒いうちは、Windowsユーザーに触らせないぞ」
もともとジョブズはMac版のiTunesしかやるつもりがなかった。iPodが使いたかったら、Windowsマシンなんて窓から投げ捨て、Macを買えばいい。そのためのiPodだったはずだ。だがiPodを開発した若きファデルは、Macにこだわるべきではありませんと怯まなかった。
iPod 1台の粗利はiMacと同じだ。パソコンよりも音楽の方が、圧倒的に客層が広い。今こそAppleはコンピュータ会社の殻を破り、音楽会社に生まれ変わるべきだとファデルたちは主張した。
「もういい。おまえらあほうの話は聞き飽きた。勝手にしろ」
結局、ジョブズは折れた。
「Appleの将来像を決める議論だった」とマーケティングのトップを務めるシラーは言う(※1)。
Appleだけでなく、人類の生活の将来像を決めた瞬間かもしれなかった。この会議を機に、Appleはコンピュータ会社から音楽会社へ、そしてポストPCの会社へと変貌していくからだ。
Appleの運命を決めた判断で、ジョブズは最初、逆の意見だったことが少なくない。
「君たちのお気に入りはこれかい?」
社会現象を起こしたシルエットCMのイメージポスターを見た時も、ジョブズは初め渋った。
「これはAppleじゃない」
たしかにそうだった。プロダクトの使用シーンと、こじゃれた決め台詞。それがジョブズの好むCMの基本だった。じぶんが生活で使っているシーンを想起させ、どんな価値観を楽しむのか15秒で伝えるのだ。
だがシルエットCMは、Appleの常識を覆していた。
iPodの写真は無かった。ビビッドな単色を背景に、真っ黒なシルエットのダンサーが、真っ白なシルエットのiPodを持って踊り狂う。白いケーブルが搖れるのを見ていると、彼・彼女の頭のなかで音楽フェスが始まっていることが伝わる。CMの末尾に「iPod + iTunes」と表示され、音楽が終わる。
はやくじぶんも、白いイヤフォンをつけて、フェスに参加したい…。
CMを見た若者はそう思うだろう。ファイル共有を機に、CDに使っていた金がライブイベントに流れ始めていた。そのトレンドをiPodに結びつけた傑作だった。CMを創ったシャイアット/デイは、ジョブズが絶大なる信頼を寄せるクリエィティブエージェンシーだった。
パーソナルコンピュータの時代を告げたスーパーボウルのCM。世界を変えると告げたThink Differentキャンペーン。若き日のジョブズは、シャイアット/デイと卓越したクリエイティブを追求し、CMでも革命を促してきた。
シャイアット/デイのスタッフたちが一歩も引かず説得する姿を見て、ジョブズはこの案がだんだん気に入ってきた。
シルエットCMが始まる1月前に、若者から取った人気ブランドに関するアンケートが残っている。この段階では、「クールな最新ガジェット」の1位はカメラ付き携帯。日本のJ-PHONE(現SoftBank)から火がついた。次点にSonyのPlayStationとiPodが並んでいた(※2)。
10月。iTunes Music Store発表から半年がたっていた。Windows版iTunes Music Storeがはじまるとともに、シルエットCMがアメリカ全土にオンエアされた。
■一粒で3倍おいしい。ジョブズ流、広告の集中戦略
ジョブズがスカウトしたジョン・スカリーが、ペプシのマーケティング手法をAppleに導入して以来、Appleはマーケティング会社の様相を持っている。スカリーは広告費を1500万ドル(約15億円)から1億ドル(100億円)に上げ、Appleのブランドを確立した(※3)。このブランド資産が無ければAppleはジョブズが復帰する前に消滅していたろう。
ジョブズは自分を追放したスカリーを許せなかったが、ブランドを創ることが何にも増して重要なことをスカリーから学び取っていた。iMacの宣伝にはスカリーと同じく、1億ドルを投下した。そして今度は、その4分の3をタイアップ音楽の入ったシルエットCMに投下した。
iTunes Music Storeに楽曲を提供してもらうため、ジョブズは、メジャーレーベルを口説き落とす必要があった。それで、CMを使ったクレージーなアイデアを約束していた。
iPod/iTunesストアの宣伝にタイアップ枠を用意する。ここまでは普通だ。レコード会社の宣伝費とは桁がふたつ違った。7500万ドル(約75億円)を投入するというのだ。音楽プレイヤーの広告規模としても他社比で100倍だった。
「iPodを売ればMacも同じように売れるはずだと、すごいことに気づいたんだ」
iPodの粗利はiMacのそれとほぼ同額だった。iMacの宣伝費を全部iPodにつっこめば2倍おいしい。さらにメジャーレーベルを口説けるときたら1粒で3倍おいしいことになる。
シルエットCMが始まると、そこから次々とヒットが生まれるようになった。もちろんiTunes Music Storeで、だ。
ブラック・アイド・ピーズの『Hey Mama』から始まり、N★E★R★Dの『Rock Star』、フィーチャー・キャストの『Channel Surfing』、ゴリラズの『Feel Good Inc』、ダフト・パンクの『Technologic』、 エミネムの 『Lose Yourself』、 プロトタイプスの『Who's Gonna Sing?』、カット・ケミストの『The Audience Is Listening Theme Song』…。
まるで00年代半ばはiPodのタイアップソングが時代の雰囲気を作っていたかのような錯覚に陥る、絶妙な選定だ。iPod、iTunes Music Store、そしてタイアップソング。三者すべてが一体となって社会現象を巻き起こすことになった。
シルエットCMの狙い通り、白いイヤフォンの向こうにでっかい音楽フェスが始まったのだった。iPodは少数派の変わり者が使うものから、音楽好きなら、持っていなければならないマストアイテムに位置づけが変わった。
iPod + iTunesのブランディングは価値観の革命を起こした。CMを見た若者に、「iTunesで音楽を買ってiPodで聴くのがかっこいい」という価値観が広がっていったのだ。
Napster(ブームを起こしたファイル共有アプリ)がクールだった時代は終わった。違法ダウンロードをすると罰があたるぞと脅す米レコード協会(RIAA)のキャンペーンより、はるかに有効だった。いつの時代も、若者は脅すより信頼する方が変わるのだろう。
mp3のダウンロードを愛する若者がiPodを持つ。iTunesを使う。iTunes Music Storeで音楽をダウンロードする。mp3プレイヤー、メディアプレイヤー、オンラインストアがシームレスに繋がった。
さらにシルエットCMが「iTunesはかっこいい」と深層心理に訴えかけたことで、Appleの創った違法から合法へのゲートウェイが機能し始めたのだ。
iPodがAppleの株価を押し上げ始めたのはこの頃からだ。
ジョブズが水面下でアメリカの音楽産業と交渉していた2002年。この段階でiPodは、Appleの売上の3%にしか過ぎなかった(※4)。そしてiTunes Music Storeの発表の段階では、ウォールストリートはAppleを決して高く評価していなかった。
Apple復活を押し上げたiMacのブームが終わり、iPodの所属するmp3プレイヤーはまだまだニッチ市場に過ぎなかった。30%のシェアを持つiPodの累計がわずか70万台だったのだ(※5)。
売れ出したiPodを見て、王者のSonyが参入してくればひとたまりもないようにも見えた。実は、ジョブズたちもそう考えていた。
「iPodを発売した時はSonyあたりに1年分の差をつけたかな、と思ってたんだ」
Appleのハードウェアを統括していた側近のルビンシュタインは振り返る。
「実際僕らは『今年のクリスマスはもらったけど、来年は他の企業も追い付いてくるぞ』って言い続けてて、つねにそのつもりで開発を進めてきた」
だが蓋を明けてみれば、Sonyもマイクロソフトも、誰もAppleのiPodに追いつけなかった。
「何年か経ったら『今年もクリスマスが楽しみだね』みたいな感じになっちゃったんだよ」
そういってルビンシュタインは笑った(※6)。若者のほしいガジェットランキングでiPodは、日本勢のカメラ付携帯電話やPlayStationをついに追い抜き、1位に到達した。
かつてエジソンから始まったアメリカのエレクトロニクス産業は、戦後日本に頂点を奪われた。そしてiPodはチャンピオンベルトをふたたびアメリカに返そうとしていた。
■iPodは初め日本で受けなかった
「で、どうすればいいと思う?」
ジョブズは単刀直入にたずねてきた。日本市場の攻略法を問われた前刀禎明(さきとうよしあき)はSonyに勤めていたこともある。その後、ライブドアを創業したが経営破綻し、堀江貴文率いるオン・ザ・エッジに会社を譲渡。起業に失敗した前刀だが、なにも諦めてはいなかった。紆余曲折を経て前刀は、春の日差しが差すクパチーノの会議室で、ジョブズから最終面接を受けていた(※1)。
世界中から興奮を集めたiPodも、日本では当初、芳しくなかった。というよりAppleブランドがいまひとつだった。
13年前(2004年)の当時、Appleは日本でニッチなブランドに留まっていた。
Macのシェアは3%以下で、銀座のAppleストアには勢いがなく、手本となったSonyビルの方が往来を得ていた。苦戦の続く日本市場にテコ入れするため、ジョブズは、じぶんの直轄で日本を担当するバイスブレジテントを雇おうとしていた。
前刀は日本の消費者の視点を、率直にジョブズへ伝えた。「iPodはオタクっぽい」というのが銀座を歩くOLたちの総評だった。パソコンで音楽を聴いたり、同期したりするというのはオタクっぽいというのだ。
世界に先駆けて、日本にはポストPCの風が吹き始めていた。iモードブーム以来、日本では「パソコンは仕事、遊びはケータイ」という文化が育っていたのだった。
だから日本はiPodが売れないのです、で話が終われば不合格だったが、前刀は問題の本質に踏み込んだ。Macが主、iPodが従になっているからAppleブランドはオタクっぽくなるのだと。
その主従関係は、ジョブズの頭脳にあった固定観念かもしれなかった。主従をひっくり返せばいい、と前刀は話した。おしゃれな音楽ガジェットをメインにして、Macは音楽のサポート役にするのだ。
iPodを便利さ、クールさで売らない。機能よりも感性で訴求する。iPodをガジェットではなく、ファッションアイテムとして認知させる。
この一点突破で日本市場は切り開けるはずだ、と。前刀の提案に、ジョブズは乗った。本質的な議論を通じて、じぶんの中にある固定観念を捨てる。そういうことに快感を覚えるところがジョブズにはあったように思う。私淑していた乙川禅師との散歩の日々が、彼のその気質を培っていたのだった。
前刀の提案はジョブズにとって、PCの時代を切り開いたAppleだからこそ、いちはやくポストPCへ行くべき、ということを意味していたのだった。前刀の採用が決まった。
就任した前刀は、再び固定観念にぶつかった。日本では白いイヤフォンは汚れるから嫌われる。日本ではリモコンが無いと売れない…。日本では…。店の声だった。
Apple Japanは、Walkmanの常識に囚われた現場の声を信じ込んでいた。黒の常識を純白が打ち破り、スクロールホイールでリモコンを不要にしたiPodの常識破りをApple Japan自身が受けれいていなかったようだ。
ちょうどその頃、Appleは日本の常識を破壊するのにふさわしいプロダクトを登場させたばかりだった。iPod miniだ。
■iPod miniがキャズム超えを起こした理由
「何であんなの買うのかしら。ユーザーに妥協を強いるのに」
iPodのマーケティングを担当するダニカ・クリアリーがそれに気づいたのは、前刀とジョブズの面談から2年遡る。市場調査を行ったところ、わずかアルバム2〜3枚分しか運べないフラッシュメモリベースのプレイヤーが30%もシェアを持っていたのだ(※8)。
利便性を捨ててでも、小さくて軽い音楽プレイヤーを求めている層がいる。スポーツ、アウトドアでは1000曲よりも小さいことが大事だった。
ならば、もっと小さいiPodを創れば、スポーツ層とアウトドア層を取り込めるのではないか? 小ささに加えて、おしゃれな装いにすれば女性層も取り込めるはず…。そう彼女は仮説を立てた。
ちょうどそのタイミングで、日立がいっそう小さな1.1インチのHDDで4GBのものを開発した。これを使えばクリアリーの商品企画は現実に出来るはずだった。
おしゃれな女性層を取り込むと、アーリーアドプター層(初期採用者)からアーリーマジョリティ層(前期追従者)へのキャズム超えを起こしやすい。Windows版のiPodとiTunes Music Storeは、iPodを2.5%のイノベーター層から、13.5%のアーリーアドプター層へ広げてくれたが、まだ音楽世界の主流は Walkmanだった。
だがこの時もまた、ジョブズは最初、反対したらしい。同じ値段でディスクの容量が減ったら、買ってくれるわけがないと思ったのだ。
「スティーブはスポーツをしませんから」
それでわからなかったのだとファデルは笑った(※9)。いったんは開発中止を命令しようとしたが、クリアリーたちの説得に真実を感じたジョブズはゴーサインを出した。
そして2004年の1月、サンフランシスコのマックワールドエキスポには銀色に輝くiPod miniを誇らしげに掲げるジョブズの姿が壇上にあった。オープニングアクトで歌った若き友人、ジョン・メイヤーがジョブズの持つiPod miniを物欲しそうに覗きこむほほえましい写真も残っている(※10)。iPod miniはカラーバリエーションが用意されていた。iMac以来のAppleの勝ちパターンだ。
iTunesも、革新的なバージョンアップがあった。ジョブズの発案したオートシンクの完成だ。それは音楽AIの時代到来へと続く、「マイラジオ」としてのiPodがここに完成したことを意味していた。
iPodは音楽ライブラリを全部持ち運ぶことを意図していたが、この頃になると数千曲を持つユーザー層も十分な母数を持ち始めた。全ての楽曲を持ち運べない代わりに、どんな曲を持ち運ぶべきか自動で判断し、適度にiPodの中身を入れ替えるアルゴリズムが搭載された。奇しくもその時期、ミュージシャンの感性と人工知能を融合させて革命を起こした、あのPandoraの開発が進んでいた。
そしてiPodはキャズム超えを起こした。
クリアリーの企画通り、iPod miniは34%のアーリーアドプター層をリードする女性層を取り込んだのだ。2004年1月から5月までの携帯型音楽プレイヤーの売り上げベスト4を、iPod勢が独占した(※11)。アメリカでAppleストアを囲む長蛇の列は止むことが無く在庫切れが続いた。
ジョブズを乗せた車がNYのマジソンアベニューに差し掛かったときの話だ。外を見てジョブズは息を飲んだ。街の誰もが白いイヤフォンを耳から垂らしていた。地下鉄からも、街角からも白いイヤフォン族が続々と出てくる。
その光景を見てジョブズは車内でガッツポーズをとった。初めて「やった!」と思ったという(※12)。
ジョブズは時代のパイオニアであり続けてきたが、メインストリームを経験したことは一度もなかった。音楽は、傍流だったAppleを遂に主流へ導いたのだ。それはiTunes Music Storeが音楽流通の主流へ向かう道筋に乗ったことも意味していた。
合法の音楽配信がメインストリームの舞台へ向かうのを、ファッションが後押ししてくれた。そういえるかもしれない。このパターンは何度も繰り返されることだろう。
■Walkmanに勝つ
ジョブズがNYで勝利を確信した頃。日本の報道陣は度肝を抜かれることになった。7月、原宿クエストホールで開かれたiPod miniのお披露目会は、ファッションショーの様相を呈していた。iPod miniを装ったモデルたちがクエストホールのステージを闊歩したのだ。
ファッション誌には服に合わせたカラーのiPod miniのコーディネートが紹介され、バーニーズ・ニューヨークのマネキンにはビビッドなiPod miniが添えられた。
Sonyビルを手本に誕生した銀座のAppleストアは、ついに本家を超える行列を創ることに成功した。
合法の音楽配信がメインストリームの舞台へ向かうのを、ファッションが後押ししてくれた。そういえるかもしれない。このパターンは何度も繰り返されることだろう。
感性マーケティングで女性層へ訴求する一方で、機能重視の男性層もたった一行で鷲掴みにするキャンペーンを打った。CMの決め台詞は「Hello iPod. Good-bye MD」。
前刀の古巣Sonyに挑戦する刺激的なCMだった。CDの父・大賀典雄のプロダクトプランニングで生まれたMDもまた、Sonyが人類に提案したものだった。
カラフルなiPod miniと白いイヤフォンの組み合わせは、流行を作り出し、日本の家電メーカーも白いイヤフォンを自社製品につけはじめた。
前刀はこれで勝利を確信したという。電車で白いイヤフォンを見た人はその先に日本製品が繋がっているとは思わない。「iPodって流行ってるんだな」と考えるからだ。
日本でiPodブランドが確立するのに、前刀がジョブズと会ってから1年もかからなかった。翌2005年の1月、iPod shuffleが登場すると、日本市場でiPodはWalkmanを超えて売上ランキング1位を獲得。それから4年8か月、Walkmanに首位を奪還されるまで、iPodは日本市場において242週連続でトップを独走し続ける(※13)。
若い頃からジョブズの日本好きは有名だ。短い人生の晩年、家族を京都に連れて行くのがジョブズの幸福だった。だがAppleといえばMacだった時代は、日本人はAppleを袖にしていた。2017年10月時点でのiPhoneのシェア(モバイルOS)は1位が日本(67%)、2位がオーストラリア(56%)、3位がアメリカ(55%)となっている(※14)。
世界一のApple好きとなった日本に対し、生前ジョブズは、はにかむような感情を持っていたようだ。
■日本の携帯電話に負け、iPhone開発を決意
Walkmanに勝ったiPodだが、日本で予想外の伏兵に苦戦することになった。
携帯電話だ。
Walkmanに勝ったiPodだが、着うたと携帯電話の国内ブームに勝つことは無かった。
iTunes Music Storeが始まった頃、Sony Musicでかつて坂本龍一や辻仁成のディレクターを務めていた今野敏博はこう気づいた。
「音楽配信はパソコンではなく、携帯電話でやるべきではないか」と。
Sony Musicはauとともに着うたを開始した。音楽を携帯電話で聴くこの遊びは、iPodも霞む社会現象を日本に起こした。やがて着うたフルが始まると日本の音楽市場はデジタル売上で世界2位に。
「日本はアメリカと並ぶ音楽配信の先進国」と世界中が注目することになった。
日本人が自嘲した「ガラケー」は、欧米では初期スマートフォンに分類している。欧米の携帯電話は、電話とショートメッセージしかできなかったからだ。
アメリカで起きたPCの時代はやがて、日本が牽引するモバイルの時代に取って代わられようとしていた。
Walkmanの敗戦にほぞを噛むSony本社は、この時代の潮目を見逃すつもりは無かった。音楽ケータイをWalkmanケータイに進化させ、着うたフルとともに世界展開。AppleのiTunesとiPodを一気に引きずり落とそうと考えたのだ。
だがiPodの父、トニー・ファデルがこの脅威に気づいていたことで歴史は変わった。
Appleの若きファデルは日本から携帯電話を取り寄せ、分解を繰り返していた。いずれ世界でもiPodは日本の音楽ケータイに負ける…。そう確信した彼は、癌で体調を崩すジョブズに『iTunesケータイ』を創るべきだと説得を重ねるのだった。
日本のエレクトロニクス産業がAppleに敗北する運命は、このとき定まろうとしていた。
日本のガラケーと着うたがiPodの脅威となって、iPhone誕生へつながった。日本がすでに忘れつつある歴史の一幕である(続く)。
■本稿は「音楽が未来を連れてくる(DU BOOKS刊)」の一部をYahoo!ニュース 個人用に編集した記事となります。
関連記事:
iPhoneを予感していた29歳のジョブズ〜iPhone誕生物語(1)
iPod誕生の裏側~スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(1)
※1 ウォルター・アイザックソン『iCon』第30章
※2 Wired 2003.9.8 『若者に今一番「クールで刺激的な」企業はアップ ル』 http://bit.ly/1hmLeu5
※3 Wired 2002.12.6 『アップルの巧みなブランド戦略を探る(上)』 http://bit.ly/1hmNu4m
※4 ジム・コリンズ『ビジョナリー・カンパニー4』日経BP社 第4章 pp.173
※5 Steve Jobs introduces iTunes Music Store 30:37 http://youtu.be/S6DX5NaPvk4
※6 スティーブン・レヴィ『iPodは何を変えたのか』ソフトバンク・クリエイティブ p.352
※7 前刀禎明『僕は、誰の真似もしない』アスコム 第二章
AERA編『スティーブ・ジョブズ 100人の証言』(2011)朝日新聞社 pp.79
NHK編『Steve Jobs Special ジョブズと11人の証言』前刀禎明の章
※8 日経エレクトロニクス iPodの開発(第11話) http://nkbp.jp/1l0PG78
※9 アイザックソン『Steve Jobs(II)』第30章
※10 http://www.ctpost.com/music/slideshow/People-John-Mayer-864/photo-2214346.php
※11 日経エレクトロニクス『iPodの開発(第12話)』
http://nkbp.jp/1l0SoJS
※12 Discovery Channel 『アップル再生 iPodの挑戦』 29:00
※13 https://www.bcnretail.com/news/detail/090902_15139.html
※14 http://gs.statcounter.com/os-market-share/mobile/japan