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パリ五輪で再燃した性別資格問題 ー男女の2択で分けて競うこと自体が時代遅れなのか?

小林恭子ジャーナリスト
母国アルジェリアに金メダルを持って帰国したヘリフ選手(写真:ロイター/アフロ)

 「メディア展望」(新聞通信調査会発行)9月号掲載の筆者記事に補足しました。

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 10月になっても暑い日々が続く日本だが、真夏に開催されたパリ五輪(開催:7月26日―8月11日)は、セーヌ川を舞台にした開会式で話題を呼んだ。この時、国際的なスポーツの大会でこれまでに何度か物議を醸してきた、性別をめぐる適正資格問題が再燃した。

 選手の性別を見た目で判断し、その行動に疑問を挟む声がソーシャルメディア上で広がったが、男女という2つの性以外に、新たな区分けを導入するべきなのかどうかについては、まだ意見がまとまっていない様だ。

 適正資格問題はエリート競技に参加するために汗水流す選手にとっては、死活問題であるばかりか、人間としての尊厳にもかかわる事柄だ。

 今一度、振り返ってみたい。

伊選手が45秒で試合停止

 今回の大会で性別資格が注目されたきっかけは、8月1日に行われたボクシング女子66キロ級・2回戦の経緯だった。イタリアのアンジェラ・カリニ選手とアルジェリアのイマネ・へリフ選手とが対戦し、開戦から39秒後にカリニ選手が顔面にパンチを受けた。コーチにヘッドギアを直してもらうために、カリニ選手はコーナーに向かい、試合は再開された。しかし、カリニ選手はまもなくしてまたコーナーに戻り、試合をやめてしまった。涙顔のカリニ選手は「これは間違っている」と発言した。後にBBCの取材に対し、「鼻に強い痛みを感じ」、「自分の命を守る」ために戦いをやめたと述べている。

 たった45秒で終わってしまった試合の報道によると、ヘリフ選手は2021年の東京五輪には出場しているものの、昨年の世界選手権ではジェンダー適正検査に合格せず、失格となっていた。

 試合の様子を写真で見ると、やや男性っぽい風貌だ。ヘリフ氏は男性の身体で生まれたが、性自認は女性である「トランスジェンダー女性(トランス女性)」なのではないか?カリニ選手は「男性の身体を持つ人が女性枠で協議に参加するのは、不当だ」と思って涙を流したのではないか?そんな憶測が飛び交った。

 「涙の試合停止」は「ヘリフ選手がトランス女性だから」という偽情報がソーシャルメディアを通じて広がった。トランプ前米大統領や児童小説ハリー・ポッターシリーズで知られる作家J.K.ローリング氏も批判者となって偽情報をさらに拡散させた。

 ローリング氏はヘリフ選手の写真に「女性を殴りつけ、希望を打ち砕いた男性の薄笑い」と書き込んで、投稿した。ヘリフ選手は「女性として生まれ、女性として育った」「トランスジェンダーではない」と父親や事情を知る人が躍起になって反駁せざるを得なくなった。

 世界選手権でジェンダー適正検査で不合格となった、もう一人の女性ボクサーがパリ五輪に出場していた。台湾の林郁婷(リン・ユーティン)選手である。銅メダルを獲得していたが、はく奪されている。五輪を運営する国際オリンピック委員会(IOC)は五輪参加のすべてのボクサーが「競技資格と参加基準を満たしている」と説明した。

 ヘリフ選手、林選手ともに資格問題をめぐってソーシャルメディア上でハラスメントを受けたが、8月9日、ヘリフ選手は66キロ級で金メダルを獲得し、翌10日、林選手は57キロ級で金メダル。どちらも最後は世界で最も著名な国際競技・五輪の場で勝者の座を得た。

 しかし、同じ選手がなぜ一つの国際競技では「適性検査で不合格」となり、別の国際競技では「参加基準を満たしている」ことになるのか。それぞれ別の基準を採用しているためだが、判断を下す組織側の事情もあった。

国際ボクシング協会への疑惑

 昨年の世界選手権を主催した国際ボクシング協会(IBA)は、1946年、アマチュアボクシングの世界的な統括団体として設立された。近年、その財務運営に疑問符が付き、2018年には当時の会長と専務理事が終身出入り禁止処分となっている。

 2022年、独立調査委員会はIBAには「歴史的な試合操作の文化」があったと指摘した。数十年間にわたる不正な財政管理やリング上でのルール違反などがあったという。昨年6月、IOCはIBAの運営体制に懸念があるとして、同団体からボクシングの世界統括団体としての地位をはく奪している。

 IBAによると、医療関係者による申し立てを受けて2人の選手に検査を行い、厳密な検討の末に「ほかの女子競技者よりも優位性があることを決定的に示す結果が出た」と説明している。検査の内容については「詳細は秘密」という。

「科学的データがもっと必要だ」

 女子選手の資格参加問題では、南アフリカ出身のキャスター・セメンヤ選手の例が知られている。同選手は2012年のロンドン及び16年のリオデジャネイロ五輪の陸上女性800mで連続金メダルを獲得した経験を持つ。2018年、国際陸上競技連盟(IAAF、国際陸連)は「テストステロン値が高い女性の出場資格制限」を設け、参加する場合は薬などでテストステロン値を下げるよう求めた。セメンヤ選手は南アフリカ陸連とともに既定の無効化を求めてスポーツ仲裁裁判に訴えたが、2019年5月、訴えは棄却された。2021年、欧州人権裁判所は、セメンヤ選手の主張を認めて審理の機会を与えるべきとした。その後も紆余曲折があり、未だ法廷闘争の途中である。

セメンヤ選手
セメンヤ選手写真:ロイター/アフロ

 

 セメンヤ選手は筋肉量、筋力、持久力に影響するヘモグロビンを増加させるホルモン・テストステロンのレベルがほかの女性より高いとされている。

 近年、「DSDs(Differences of sex development)」という言葉が次第に知られるようになった。日本語では「性分化疾患」と訳されるが、「体の性の様々な発達」を指す。体が「男でも女でもない」ではなく、「中間」でもない。また、ほとんどの場合、自分が生まれた性を自分の性として認識しているので、生まれた性別と相いれない自認を持つトランスジェンダーと同じではない。

 セメンヤ選手はDSDsを持つと言われている。先の2人のボクシングの選手がこれに該当するのかは不明だ。IBAが選手への検査内容を公にしておらず、IOCは2人が「女性として生まれ、育った」と説明しているため、判断材料がない。

 エリート・スポーツは「男性か女性か」の二者択一で競技が行われるが、生物の性は複雑である。今後どのように規制するのかは単純ではない。

 DSDsとスポーツ選手とのかかわりについて論文を準備しているシェーン・ホフマン博士は「IOCが最先端の科学的根拠によって性を分けているのではないことが気にかかる」と指摘する(BBCニュースの記事、8月9日付)。DSDsを持つ人についての「十分なデータがまだない」という。迅速な研究と議論が望まれる。

 しかし、データの集積と分析によって一定の科学的結論が出たとしても、「男性」「女性」で分ける競技の仕組み自体が、性を流動的なものとして考える昨今の状況に合っていない可能性もある。この点も含めて議論が深まるよう願っている。

ジャーナリスト

英国を中心に欧州各国の社会・経済・政治事情を執筆。最新刊『なぜBBCだけが伝えられるのか 民意、戦争、王室からジャニーズまで』(光文社新書)、既刊中公新書ラクレ『英国公文書の世界史 -一次資料の宝石箱』。本連載「英国メディアを読み解く」(「英国ニュースダイジェスト」)、「欧州事情」(「メディア展望」)、「最新メディア事情」(「GALAC])ほか多数。著書『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス』(洋泉社)、共訳書『チャーチル・ファクター』(プレジデント社)。

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