【九州三国志】知略の達人、角隈石宗!武略と人徳が織りなす軍師の生涯
豊後の大友氏に仕えた角隈石宗は、軍配者として武田流や小笠原流の兵法を極め、さらに占術や気象予測にも精通していました。
その知識と実力から、石宗は大友義鎮(宗麟)の軍師として活躍し、『大友興廃記』には弟子として戸次鎮連の名も記されています。
さらには、明智光秀に軍略を伝授したとも伝えられ、兵法のみならず天文学や易学、さらには礼儀作法といった幅広い学問を兼ね備えた人物として知られていました。
彼の人格も高く評価され、「道学兼備の人」として主君や武将たちから尊崇を集めたのです。
『フロイス日本史』にも、その篤実な性格と高潔な学識が記されています。
天正6年(1578年)、宗麟が島津討伐のために日向に出陣を決めた際、石宗はこれを諌めました。
しかし、宗麟はその進言を受け入れず、石宗は覚悟を決めて自らの兵法書を焼き払った後に出陣します。
耳川の戦いで、薩摩の武士・本郷忠左衛門によって討ち取られました。
石宗を敬愛した本郷は、その後彼を大明神として祀ったといいます。
また、島津義久が彼の首を見て涙を流し、廟を建ててその菩提を弔ったとも伝えられるのです。
こうした逸話は石宗の徳と名声の高さを物語っています。
さらに石宗には奇抜な逸話も残されています。
吉野山で祈祷中に天から脇差が落ちてきたという話や、空のカラスを呼び寄せる術を披露したといった逸話が彼の神秘的な人物像を彩っているのです。
生涯を通じて大友氏に尽くし、信念と智略を胸に戦場を駆けた石宗の物語は、戦国期の軍師の理想像として語り継がれています。