刀伊の入寇、その記録の一幕!海賊と侵攻に揺れた日本の沿岸
古代の日本を襲った暗雲の一つに、「刀伊の入寇」という一連の事件があります。
11世紀初頭、対馬や壱岐、さらには九州沿岸の地は、女真族を主体とする賊徒の襲撃によって、血と炎に染まりました。
そこには、北東アジアの複雑な国際情勢が絡み合い、歴史の波間に揺れる日本の姿が見て取れます。
まず物語は、遙かなる北の地から始まります。
926年、契丹が渤海を滅ぼしたことで、女真族をはじめとする北方民族たちの交易ルートが断たれ、生活の糧を求めた彼らの視線は次第に南へと向けられるようになりました。
1019年、刀伊と呼ばれる女真系の集団が、賊船50隻に約3000人を乗せ、対馬へと襲来したのは、そんな時代背景の中の出来事でした。
対馬は突如訪れた惨劇に翻弄されます。
殺戮、放火、略奪、そして人々の拉致。記録によれば、36人が命を落とし、346人もの住民が賊の手に連れ去られました。
時の国司、対馬守遠晴は何とか島を脱出し、大宰府にその窮状を訴えますが、対馬の傷は深く、住民たちの嘆きは海を越えても届かないほどに重いものでした。
賊徒たちは次に壱岐へとその手を伸ばします。壱岐守藤原理忠は果敢にも147名の兵を率いて迎撃に出ますが、圧倒的な人数差に歯が立たず、壮烈な戦死を遂げたのです。
彼の奮闘が光る一方で、壱岐嶋分寺の僧侶たちが繰り広げた抵抗劇もまた特筆に値します。
常覚という僧侶が率いる住民と僧侶たちは、三度までも賊徒を撃退するものの、ついには寺は陥落。
炎に包まれた寺とともに、多くの命が消え、残されたのはわずか35名の生存者だけでした。
やがて、刀伊の魔手は九州本土にも及びます。
筑前国や肥前国を襲い、博多の警固所へと迫った彼らを迎え撃ったのが、大宰府の藤原隆家です。
隆家は文官でありながら、武器を手に持ち、兵を率いて奮戦します。
彼の采配のもと、博多での上陸を阻止することに成功した日本側は、ついに賊徒を高麗へと追いやることに成功しました。
しかし、物語はこれで終わりません。
賊徒が逃れた高麗の地で、日本人捕虜たちが救出されるという意外な結末が待っていました。
300名近い捕虜が高麗軍によって助け出され、丁重に扱われた末、日本へと送り返されたのです。
高麗による手厚いもてなしは、善意であったにせよ、日本側の警戒心を煽る結果となりました。
「新羅が改名したに過ぎない国に、どこまで信用を置けるのか?」という疑念は、大宰府の報告書にも記されています。
二週間にわたる戦闘と混乱の中で、364名が命を落とし、1280名が拉致されました。
壱岐では島民のほとんどが姿を消し、対馬でも住民の生活は壊滅的な打撃を受けました。
一方で、この事件がもたらしたのは、単なる悲劇だけではありません。
国内の防衛意識が高まり、大宰府を中心に、武士や文官たちが連携して国を守る姿勢が示されたのです。
この事件は、遠く北の海を起点に、交易路の変遷、民族の興亡、そして異国の波が日本の海岸に押し寄せたことを物語っています。
刀伊の入寇は、日本の歴史に刻まれた忘れがたい傷跡であると同時に、国際情勢の変化に直面した古代日本の姿を映し出す鏡でもあるのです。
参考文献
関幸彦(2021)『刀伊の入寇 最大の対外危機』中央公論新社