設楽原の戦い前夜、織田・徳川連合軍と武田軍の軍事行動を追ってみる
本日の大河ドラマ「どうする家康」は、いよいよ設楽原の戦いである。今回は、設楽原の戦い前夜、織田・徳川連合軍と武田軍は何をしていたのか、考えることにしよう。
天正3年(1575)4月、武田勝頼は三河へ攻め込むと、5月にはたちまち長篠城(愛知県新城市)を包囲した。ただし、長篠城は複雑な地形で攻略が困難だったので、武田軍は城を落とすまでに至らず、ひたすら城主の奥平氏は攻撃に耐えていた。
やがて、奥平氏は劣勢となったので、味方に援軍を要請するため、使者として鳥居強右衛門を徳川家康のもとに派遣した。強右衛門は窮状を伝えることに成功し、同年5月18日、織田・徳川連合軍は約3万8千の軍勢で、長篠城に向かった。
実際に織田・徳川連合軍が向かった場所は、長篠城の手前にある設楽原だった。設楽原は平野ではなく、丘陵地が沢や小川に沿って南北に連なっている地形だった。軍勢の数は、武田軍よりも織田・徳川軍が圧倒的に多かったといわれている。
武田軍と織田・徳川連合軍は連吾川を挟んで陣を置き、川を自然の堀として防御線を築いた。織田・徳川連合軍は、丘陵地ゆえに相手陣を奥深くまで見渡せないという地形を利用し、さらに馬防柵を築くなどして万全の態勢を築いたのである。
5月20日、両軍の前哨戦として、鳶ヶ巣山砦(愛知県新城市)における攻防が繰り広げられた。鳶ヶ巣山砦は、武田軍が長篠城を攻略する付城として築かれていた。
織田・徳川連合軍は奇襲戦で鳶ヶ巣山砦を攻略すると、武田軍の退路を断つことに成功したので、自軍の士気を大いに高めた。戦いは、織田・徳川連合軍が有利に進めたのである。
翌日、設楽原で両軍は戦った。当時、連吾川の中流域は水田があったので、武田軍が大軍で織田・徳川連合軍に攻撃するには足元が悪かった。さらに、織田・徳川連合軍の3千挺の鉄砲は、攻め込んでくる武田軍を待ち構え、次々と射殺した。
劣勢となった武田軍はなすすべもなく、大敗北のうちに戦いを終えた。武田氏が誇る戦国最強の「武田の騎馬軍団」は、無残な敗北を喫したという。なお、設楽原の戦いの詳細は、明日以降取り上げることにしよう。