シリア、パレスチナ:オリーブ石鹸が世界無形文化遺産に登録された意義
ユネスコの世界無形文化遺産に、パレスチナのナーブルスの石鹸づくりと、シリアのアレッポの石鹸づくりが登録された。いずれの登録も、昨今のパレスチナとシリアの情勢に鑑みれば「それどころじゃない」という心境の人々の方がはるかに多いようで、この事実は筆者がアラビア語の報道をぼんやり眺めている範囲内ではほとんど言及されなかった。となると、当然のことながら本邦の報道に載ることもなく、登録はひっそりと、その事実が記されただけで終わったようだ。
とはいうものの、今般の登録はずいぶん長い間破壊と殺戮と封鎖にさらされ、経済的な成功どころか日々の身の安全もおぼつかない境遇に貶められているパレスチナとシリアの両人民にとって数少ない明るい知らせであることは確かだ。ナーブルスが位置するヨルダン川西岸地域も、シリアのアレッポ周辺も、人類の歴史上最古とも言われる都市がつくられた地域であり、両地域でのオリーブ栽培とそれを用いた数々の産品もそうした歴史とともに地域の住民の生業となってきた。例えば、シリアのアレッポでのオリーブ石鹸の生産と流通は、1000年以上の歴史を持つとされているようだ。また、両地域でもオリーブの栽培、石鹸の製造や販売は大企業や大資本による事業ではない、地元に古くから根付いた家族経営の農家や加工事業者によって担われてきたものだ。今般の無形文化遺産登録で、石鹸だけでなく原料の生産、製品の流通や販売、使用に至るまでの過程に世界的な関心が高まり、個々の過程に関係する諸事業の維持と発展につながることが大切だ。
その一方で、ナーブルスでもアレッポでも、オリーブ石鹸の生産・流通・消費の過程が壊滅の危機に瀕していることもまぎれもない事実だ。例えば、パレスチナ(特にヨルダン川西岸地区)では、オリーブの栽培がイスラエルによる侵略・占領・入植に対する抵抗のうち、「どんなに迫害されても耐え忍んで現在の居場所からどかない」という抵抗の形態である「スムード」の象徴となっている。この地域のパレスチナ人民は、オリーブ畑を維持・拡大しようと乏しい資源を費やしてオリーブの果樹の維持と植樹に努めている。侵略・占領・入植する側もそれを承知なので、2023年10月7日の「アクサーの大洪水」攻勢以後の展開を待つまでもなく、イスラエルの入植者とそれを保護するイスラエルの官憲は、パレスチナ人民によるオリーブ栽培を妨害することに全力を挙げている。パレスチナ人民によるオリーブの収穫を妨害することはイスラエルの入植者とそれを警備する同国の軍・治安部隊の重要な活動であり、パレスチナ人民に連帯してオリーブの収穫を手伝おうとするアメリカ国籍者を含む外国の支援者が殺傷されるのも珍しくない。
シリアのアレッポ石鹸の生産や流通は、パレスチナと同様かもっと陰湿な脅威にさらされている。シリアでは、シリア紛争勃発(2011年)以来、資本や人材の海外流出が進んだし、この間オリーブの生産はずっと苦境に立たされ続けてきた。具体的には、人民の日常生活やオリーブ石鹸産業に欠かせない電力供給をはじめとする社会基盤や産業施設が、破壊されるか隣国のトルコに逃避するかしたが、それ以上にこれらの多くは本来の用途を全く顧みないイスラーム過激派諸派(注:現在話題のシャーム解放機構を含む)らによって、くず鉄としてトルコで売り払われてしまっていたのだ。この結果、正真正銘のアレッポ産の石鹸は、少なくとも本邦ではアレッポ石鹸の何たるかを理解した一部の献身的な業者が流通させている製品に限られている。
ナーブルスの石鹸、アレッポの石鹸とともに、日本の伝統的酒造りもユネスコの無形文化遺産に登録され、こちらは本邦でも広く報じられた。重要なのは、文化遺産として尊重すべき点が、お酒を造る製法やできた製品の科学的組成ではなく、原料の生産、お酒の醸造、地域での消費の過程の凡てだということだ。となると、ナーブルス石鹸も、アレッポ石鹸も、領域で長年営まれてきた地域の人民の生業の総体が大切なのであり、製法や資本をよそに持っていって科学的には同じ組成の物体を生産することが大切なのではないだろう。ナーブルスでも、アレッポでも、伝統的な石鹸の生産と流通は、それを歴史的・文化的事実として抹消しようと企画する悪意、単に目先のくず鉄販売の利益として破壊しようとする悪意など、ありとあらゆる悪意によって本当に消滅の瀬戸際に立たされている。ここまで深刻な事態を予測していたかどうかはともかく、どんな政治的意図があったかもともかく、この二種類の石鹸を無形文化遺産に登録することに成功した諸当事者に敬意を表すべきだ。また、筆者自身もアレッポの石鹸には日常的な使用はもちろん、アラブの商人との交渉のためのアラビア語の練習の教材となってくれたことも含め、とても愛着がある。本来あるべき場所での存在が脅かされている二種類の石鹸が無形文化財に登録されたことを祝するとともに、両者が社会的・文化的根幹から切り離された「ナーブルス風/アレッポ風」石鹸という形式的な存在に堕してしまわないことを祈願し、同じく無形文化財に登録された筆者の出生地の日本酒で乾杯した。