【その後の鎌倉殿の13人】北条義時の葬送に参列した多くの御家人らが流した涙の訳
鎌倉において、貞応3年(1224)の6月は慌ただしく過ぎていったことでしょう。6月13日に、二代執権・北条義時が死去。同月18日には、義時の「葬送」(葬儀)が行われています。義時は、鎌倉にある源頼朝の墳墓堂(法華堂)の東の山上に葬られました(北条義時法華堂)。
鎌倉にある義時法華堂跡を訪問したことがあるのですが、墓などが建っている訳ではありません(頼朝法華堂跡には、石塔が建っています)。2005年の発掘調査で、地下から墳墓堂の遺構が発見されたのです。発見は、極く最近のことだったと言えます。義時法華堂は、鎌倉時代末に焼けてしまい、再建されることはありませんでした。
葬送のお供に参加したのは、義時の子供達(北条朝時・重時・政村・実泰・有時)や三浦泰村(三浦義村の次男)、宿老の家臣らでした。その他には、多くの御家人が、群れ集まり、亡き義時を見送りました。彼らは涙を流していたとのことです(『吾妻鏡』)。
これは、義時という人間が慕われていたからでしょう。詳しい説明はここでは省きますが、私は義時は、困っている人間を助ける気配りの人(政治家)という一面があったと考えています。6月19日には、義時の「初七日」の仏事が行われました。6月22日には、三浦義村が臨時の仏事を執り行ったようです。
6月26日、義時の「二七日」の法要(故人の命日から14日目に行われる法要)が執行。この日に、義時の嫡男・北条泰時が都から鎌倉に戻ってきます。6月28日、北条政子(義時の姉)と泰時は会見。伯母の政子から、泰時は執権として政治を推進するように命じられるのでした。
そうした中で進行していた、伊賀氏の陰謀。義時の後妻・伊賀の方は北条政村を産みますが、伊賀の方の兄弟・伊賀光宗は、政村を次期執権にせんと企んでいたのです(『吾妻鏡』)。慌ただしく過ぎた6月。そして激動の7月がやって来ます。