地味ながらもキラリと光る、家康の長女・亀姫とはどんな女性だったのか
大河ドラマ「どうする家康」では、瀬名と五徳が注目されている。しかし、家康の長女・亀姫も話題になっているので、どういう女性だったのか考えることにしよう。
幼い頃の徳川家康は、駿河今川氏のもとで人質生活を送っていた。やがて、両者は同盟の証として、家康が瀬名(今川氏の重臣・関口氏純の娘)と結婚することになった。政略結婚である。
永禄3年(1560)、2人の間に誕生したのが亀姫である。ただ残念ながら、亀姫の史料は乏しく、とりわけ幼少時の生活などは不明である。亀姫が生まれたときは、ちょうど桶狭間の戦いで今川義元が討たれた時期と重なる。
義元の戦死後、家康は織田信長と同盟を結び、のちに今川氏は戦国大名としては滅亡した。とはいえ、背後に控えた甲斐の武田信玄は、決して油断ならない存在だったといえる。そこで、注目されたのが奥三河の奥平氏である。
もともと奥平氏は今川氏に従っていたが。今川氏の衰退後は家康の配下に収まっていた。しかし、元亀元年(1570)、武田氏が奥三河に侵攻したので、奥平氏は武田氏の配下となった。家康が困ったのは、いうまでもないだろう。
元亀4年(1573)頃、家康は盟友の信長に相談したところ、亀姫と奥平信昌(当時は貞昌)を結婚させてはどうかとアドバイスをもらった。家康は奥平氏に対して、2人の結婚だけではなく、加増などの条件を付け加えて提案した。
その後、奥平氏は武田氏と手を切り、家康のもとに舞い戻ったが、亀姫はまだ幼かったので婚約の段階だった。しかし、その代償は大きく、武田氏のもとに人質として送っていた信昌の妻や弟などは、処刑されたのである。
こうして天正4年(1576)、ようやく信昌は亀姫と結婚したのである。それまで信昌は「貞昌」と名乗っていたが、信長から「信」の字を与えられたという。
亀姫を正室に迎えた信昌は、生涯にわたって側室を置かなかった。そして、四男一女に恵まれたのである。とはいえ、武田氏の侵攻がなければ、2人は結ばれなかったに違いない。