【その後の鎌倉殿の13人】三浦義村の野望が北条義時死後の鎌倉を不穏にした!?
貞応3年(1224)7月5日ーそれは北条義時死去(6月13日)の翌月のことです。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)によると、鎌倉中が不穏な空気に包まれていたようです。同書はそれを「鎌倉中物忩」(ぶっそう)と表現しています。
その不穏な空気の要因は何か?義時の5男・北条政村(伊賀の方所生)を執権に就けんとする野望を抱く伊賀光宗兄弟が三浦義村の邸に頻りに出入りしていたからです。
三浦義村ー大河ドラマ「鎌倉殿の13人」においては、俳優の山本耕史さんが演じ、したたかで何を考えているか分からないが、それでいてどこか憎めないコミカルな義村を好演していました。義村が、なぜか、突然、衣服を脱いで、何度か筋肉美を披露したことも話題となりました。
ドラマでは、義時の年少の頃からの「親友」でありつつも、同時に義時を超えんとする野心を抱き、最後には義時毒殺に手をかすという振る舞いに及んだ三浦義村。
ちなみに、義村は相模国の豪族・三浦義澄の嫡男です。母は、伊豆国伊東の豪族・伊東祐親の娘(義時も祐親の別の娘を母としています)。父・義澄は、いわゆる「鎌倉殿の13人」(13人の合議制)の1人でありました。
義村は、頼朝の腹心であった梶原景時の追放に手をかしたり、娘を北条泰時に嫁がせたりして、幕政のなかで着実に力を付けていきます。『吾妻鏡』では、和田義盛が討たれた「和田合戦」(1213年)の際、義村は一族の義盛に味方すると約していたが、土壇場で裏切り、北条方に付いた様が描かれています。
こうした逸話が、義村の得体のしれない、したたかな武将というイメージ形成に影響を与えたと思われます。しかし、近年では、義村は最初から北条氏に内通していたとする見解が有力です。
さて、その三浦義村、義時の死後には、どのような動きを見せるのでしょうか。