幻に終わった、2つの越前朝倉氏再興計画の全貌とは
あいかわらず円安、物価高、人手不足が続き、倒産する企業も少なくない。中には、再興を模索する会社もあろう。
越前朝倉氏といえば、織田信長によって滅ぼされたが、以後も再興計画が持ち上がった。その辺りを詳しく解説することにしよう。
天正元年(1573)8月、越前朝倉氏は織田信長によって滅ぼされると、当主の義景の首は獄門に晒され、箔濃(はくだみ)にされた。しかし、これで朝倉氏は再興を諦めたわけではなかった。
天正2・3年(1574・1575)に比定される朝倉景嘉書状は、伊勢神宮御師の西村八郎兵衛尉らに宛てたものである(「名古屋大学附属図書館所蔵神宮皇學館文庫」所蔵文書)。
景嘉が朝倉氏一族なのはたしかであるが、その系譜や経歴、生没年は不詳である。書状の内容は、越前の所領から伊勢に神楽料を贈ることを約束したものだが、それ以外に重要なことが書かれていた。
景嘉は越前における朝倉氏再興が遅れているので、越後の上杉謙信を頼り、再興を目指す旨を記していた。当時、謙信は信長に対抗しうる軍事力を誇っていた。
景嘉は信長はもちろんのこと、ましてや越前を支配していた一向一揆に与することを潔しとせず、謙信の助力によって、朝倉氏の再興を目論んでいたのである。
天正6年(1578)、朝倉宮増丸は足利義昭の近臣に書状を送った(「吉川家文書」)。当時、義昭は信長から京都を追放され、備後鞆(広島県福山市)で毛利輝元の庇護を受けていた。
書状の内容は、宮増丸が与三なる人物を朝倉氏の家督とし、再興する旨を願ったものである。与三とは朝倉景忠のことで、天正3年(1575)に信長が越前に再び攻め込んだ際、辛うじて生き延びた人物である。
宮増丸は牢人となった朝倉氏旧臣を糾合し、越前の奪還と朝倉氏の再興を目論んでいた。以上の2例からわかるように、越前朝倉氏は義景の死によって完全に滅亡したのではなく、その一族が生き残っていたのである。
ところが、景嘉であれ、宮増丸、景忠であれ、その計画は見事に失敗に終わった。まず、頼みとなる謙信は、天正6年(1578)に病没した。
また、毛利氏は信長に対抗しうる有力な存在だったが、やがて信長を相手にして苦戦を強いられたからである。とても、朝倉氏再興どころではなかったのだ。