金銀を大名や公家に配りまくった豊臣秀吉の真意は、いったいどこにあったのか?
賃上げが叫ばれつつも、一部でしか実現しない昨今、「ああ、お金があったらなあ」と思うのは私だけではないだろう。かつて豊臣秀吉は金銀を配りまくったというが、その真意はどこにあったのだろうか?
天正17年(1589)5月20日、秀吉は京都の聚楽第で諸大名に金銀を配ったという(『蓮成院記録』)。金子は4,900枚、銀子は21,100枚の合計26,000枚だった。これが大金だったことは、もちろん言うまでもない。
ところが、『多聞院日記』は金銀が各1,000枚と記録しており、『鹿苑日録』には金6,000枚、銀25,000枚と書かれている。枚数に相違はあるものの、莫大だったのは事実で、徳川家康は金200枚、銀2,000枚を与えられたという(『家忠日記』)。
金銀は公家にも配られたが、その理由はどこにあったのか。『鹿苑日録』によると、秀吉が諸大名に金銀を配った理由は、御遺物(形見分け)であると記されている。人の生死はわからないうえに、死に臨んだ際は病苦・死苦で訳が分からなくなるので、とりあえず配ったという。
慶長3年(1598)7月、病気で死期が迫った秀吉は、公家や門跡、諸大名に金銀を御遺物(形見分け)として配った。家康、前田利家は、それぞれ金子300枚を与えられた。それから約1ヵ月後の同年8月18日、ついに秀吉はこの世から去ったのである。
当時、モノを贈る行為(贈与)には、一般的に礼物(贈与に対するお礼)があった。しかし、秀吉が諸大名や公家に贈った御遺物(形見分け)には、礼物(贈与に対するお礼)が伴っておらず、秀吉はそれを期待していなかったという。
秀吉が配った金銀は、消費などに用いられたり、貯蓄されたりしたに違いない。京都は消費が伴う都市であり、公家や諸大名が集住していたので、金銀は贈答にも使われたという。
秀吉が御遺物(形見分け)と称して金銀を配ったのは、豊臣政権下における経済政策、あるいは貨幣政策であるとの指摘がある。「金は天下の回り物」というが、結果的に配った金銀が使用されることによって、経済が活性化する効果が見込まれたのだろう。
主要参考文献
河内将芳『落日の豊臣政権』(吉川弘文館、2016年)。
本多博之『戦国織豊期の貨幣と石高制』(吉川弘文館、2006年)。