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<朝ドラ「エール」と史実>古関裕而最大の謎…「竹取物語」は本当に国際作曲コンクールで賞を取ったのか

辻田真佐憲評論家・近現代史研究者
(写真:アフロ)

再放送中の朝ドラ「エール」。物語は最初の山場を迎えました。裕一の作曲した交響曲「竹取物語」が、国際作曲コンクールでみごと二等を受賞したのです。

史実でも、古関裕而が国際作曲コンクールで二等を取ったとして、新聞で大きく取り上げられました。たとえば、「福島民友新聞」には、つぎのように出ています。

世界的に認められた!!/一無名青年の作曲/一流音楽家に互して二等当選/福島市の古関裕而君

埋もれていた世界的作曲家が福島市から現れ出で郷党人を驚かした。右は福島市新町喜多三呉服店主・古関三郎治氏長男裕而君(22)という目下川俣銀行に勤務している一介の青年で、同君は昨年10月中英国ロンドン市のチェスター楽譜出版社で募集した作曲に「竹取物語」外三曲を応募した所、世界中の一流作曲家を凌(しの)いで美事第二等に当選し、大作曲家連を顔色なからしめ(た)。

出典:1930年1月23日付。一部表記を改め、誤字を訂正した。以下同じ。

古関の作曲家人生において、これが画期的な大事件だったのはいうまでもありません。にもかかわらず、その自伝『鐘よ鳴り響け』では、まったく言及されていないのです。これは一体どうしたことなのでしょうか。

英語の手紙を誤読した?

その謎解きだけで一冊の本まで出ているのですが(国分義司・ギボンズ京子『古関裕而1929/30』)、ざっくり結論だけいえば、実は当選していなかったのではないか――というのが、近年の有力説です。

といっても、古関が嘘をついていたわけではありません。古関はたしかに国際作曲コンクールに応募し、なんらかの返事を受けました。ただ、送られてきた英語の手紙を「二等当選」と誤読した上、親しい人に伝えてしまったようです。それが漏れて、大々的な新聞報道に発展。やがて古関は間違いに気づいたものの、後の祭りだったというわけです。

以上は、さまざまな資料を照らし合わせた末の結論なのですが、それでも多くの推論が含まれており、まだまだ謎の部分も少なくありません。今後のさらなる研究が待たれます。

初期のクラシック作品はほぼ現存せず

ところで、「竹取物語」はどんな曲だったのでしょうか。残念ながら、その楽譜は残されていません。作曲家の菅原明朗が見たと証言しているので、存在はしたのでしょうが、いまのところ謎に包まれています。

1930年7月の「ビクター月報」に掲載された古関自身の解説によれば、史実の「竹取物語」は舞踊組曲で、一つの前奏曲と、八つの舞曲(生立ち、つまどひ、仏の御石の鉢、蓬莱の玉の枝、火鼠の裘、竜の首の珠、つばくらめの子安貝、天の羽衣)より成り立っていたといいます。

また、同じ資料によれば、つぎのような作品も作っていたそうです。

第1から第3までの交響楽、ヴィオロン-セロのコンツェルト、5台のピアノの為のピアノ・コンツェルト、一茶の句に依る小品童曲8曲、和歌を主題とせる交響楽短詩、舞踊詩「線香花火」、舞踊組曲「竹取物語」。「千九百三十年行進曲」、交響楽詩「ダイナミック・モーター」「寂光院」「漁村の秋」など。オーケストラ伴奏の歌曲は、関屋敏子嬢に捧ぐる北原白秋氏作詞の「狂念」(未完成)および荻野綾子氏に捧げた本田青華氏歌の「夕立雲」その他がある。弦楽物では、2つほど四重奏。器楽物ではカンディンスキーの絵に依る「抒情的なる物」。小学唱歌「故郷の空」変奏曲、そのほか。

当時の古関は、のちの大衆作曲家のイメージから想像がつかないほど、クラシック志向だったことがわかります。これだけのものを片田舎で(ほとんど)独学で作曲したのですから、たしかに天才的な才能の持ち主だったのでしょう。

初期のクラシック作品はほぼ残されていませんが、いまとなっては、それほど大きな問題ではないともいえます。というのも、その才能は、大衆音楽の分野で十分に証明されているからです。栄達を極めた古関自身は、あえて自伝で「竹取物語」について触れるまでもないとも考えたのかもしれません。

評論家・近現代史研究者

1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『ルポ 国威発揚』(中央公論新社)、『「戦前」の正体』(講談社現代新書)、『古関裕而の昭和史』(文春新書)、『大本営発表』『日本の軍歌』(幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)などがある。

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