<朝ドラ「エール」と史実>古関裕而最大の謎…「竹取物語」は本当に国際作曲コンクールで賞を取ったのか
再放送中の朝ドラ「エール」。物語は最初の山場を迎えました。裕一の作曲した交響曲「竹取物語」が、国際作曲コンクールでみごと二等を受賞したのです。
史実でも、古関裕而が国際作曲コンクールで二等を取ったとして、新聞で大きく取り上げられました。たとえば、「福島民友新聞」には、つぎのように出ています。
古関の作曲家人生において、これが画期的な大事件だったのはいうまでもありません。にもかかわらず、その自伝『鐘よ鳴り響け』では、まったく言及されていないのです。これは一体どうしたことなのでしょうか。
英語の手紙を誤読した?
その謎解きだけで一冊の本まで出ているのですが(国分義司・ギボンズ京子『古関裕而1929/30』)、ざっくり結論だけいえば、実は当選していなかったのではないか――というのが、近年の有力説です。
といっても、古関が嘘をついていたわけではありません。古関はたしかに国際作曲コンクールに応募し、なんらかの返事を受けました。ただ、送られてきた英語の手紙を「二等当選」と誤読した上、親しい人に伝えてしまったようです。それが漏れて、大々的な新聞報道に発展。やがて古関は間違いに気づいたものの、後の祭りだったというわけです。
以上は、さまざまな資料を照らし合わせた末の結論なのですが、それでも多くの推論が含まれており、まだまだ謎の部分も少なくありません。今後のさらなる研究が待たれます。
初期のクラシック作品はほぼ現存せず
ところで、「竹取物語」はどんな曲だったのでしょうか。残念ながら、その楽譜は残されていません。作曲家の菅原明朗が見たと証言しているので、存在はしたのでしょうが、いまのところ謎に包まれています。
1930年7月の「ビクター月報」に掲載された古関自身の解説によれば、史実の「竹取物語」は舞踊組曲で、一つの前奏曲と、八つの舞曲(生立ち、つまどひ、仏の御石の鉢、蓬莱の玉の枝、火鼠の裘、竜の首の珠、つばくらめの子安貝、天の羽衣)より成り立っていたといいます。
また、同じ資料によれば、つぎのような作品も作っていたそうです。
当時の古関は、のちの大衆作曲家のイメージから想像がつかないほど、クラシック志向だったことがわかります。これだけのものを片田舎で(ほとんど)独学で作曲したのですから、たしかに天才的な才能の持ち主だったのでしょう。
初期のクラシック作品はほぼ残されていませんが、いまとなっては、それほど大きな問題ではないともいえます。というのも、その才能は、大衆音楽の分野で十分に証明されているからです。栄達を極めた古関自身は、あえて自伝で「竹取物語」について触れるまでもないとも考えたのかもしれません。