【九州三国志】講和か戦か、大友軍の迷い!島津の布陣、耳川の血潮に勝利を刻む
天正6年(1578年)、大友家が日向国への大規模侵攻を開始する中、島津家も反撃の準備を整えていました。
大友軍の耳川以北の制圧により、伊東家旧臣を失った島津義久は、南九州の力を結集させて北上を決定します。
まず上野城や隈城を攻略し、伊東家の拠点を次々と陥落させました。
さらに、将軍足利義昭の御内書という大義名分を得た義久は、石ノ城へ再び兵を差し向け、9月には同城を陥落させます。
伊東家の残存勢力は豊後へと退きました。
一方、耳川以南に布陣していた大友軍は10月に南下を開始し、島津方の高城を包囲します。
大筒や鉄砲を駆使して攻勢に出るが、城主山田有信と救援に駆けつけた島津家久の奮戦により攻略には至りませんでした。
その間に義久は薩摩・大隅から軍を召集し、総勢4万の兵をもって出陣します。
11月、財部城に軍を集結させ、陽動と伏兵を駆使した作戦を展開します。
陽動部隊が大友軍の松原陣を撹乱し、救援に駆けつけた部隊を伏兵が一挙に攻撃します。
混乱する大友軍に対し、島津軍の主力部隊も渡河して追撃を加えました。
戦場では、大友軍内で講和派と主戦派が割れ、意見が統一されないまま、やむを得ず戦闘に突入します。
11月12日、田北鎮周と佐伯宗天が独断で攻撃を開始し、大友軍本隊もこれに続く形で島津軍前衛を壊滅させました。
しかし、大友軍が小丸川を渡ったところで島津軍本隊と伏兵の反撃を受け、大友軍は大混乱に陥ります。
島津軍の計画通りに戦局は進み、根白坂に布陣した義久自らが指揮を執り、大友軍を追い詰めたのです。
壊滅状態の大友軍は耳川を越えて撤退するも、多くの兵が川を渡り切れず溺死するなど、甚大な被害を受けました。
戦後、大友宗麟は態勢を整えるために豊後へ退去し、耳川の合戦は島津軍の勝利に終わったのです。
大友家はこの敗北で主力を喪失し、内部の不協和音が一層深まります。
さらに、義昭の御内書が大友領内の国人たちに送られたことで離反者が続出したのです。
筑前の秋月種実や肥前の龍造寺隆信らが反旗を翻し、大友氏は一気に勢力を失いました。
一方、島津氏はこの勝利を機に九州での影響力を拡大し、日向から豊後へと侵攻を進めたのです。
島津の台頭により、九州の秩序は激変し、大友氏の衰退は明白となります。
しかし、豊臣秀吉の九州征伐により島津氏も敗北を喫し、その野望は潰えることとなるのです。
この戦いは、九州統一を目指す島津氏にとって一時的な栄光であり、同時に大友氏の没落の象徴となりました。