Yahoo!ニュース

【その後の鎌倉殿の13人】三浦義村の言葉を聞いた北条泰時が無表情だった訳

濱田浩一郎歴史家・作家

貞応3年(1224)7月17日、北条政子から「北条政村(義時の5男。伊賀の方の子)を擁して、世を乱すのか、それとも和平の計りを巡らすのか。早く、決断しなさい!」と迫られた三浦義村。

政子の発言を受けて、義村は「伊賀光宗には、謀反の用意があると思われます。この私が、光宗の謀反を止めさせましょう」と返答したのでした。その翌日、義村が訪れたのは、北条泰時の邸。義村は何を言いに、泰時のもとを訪れたのでしょうか。

先ず、義村は泰時を前にして、次のように言います。「亡くなった義時様の時代、この義村は、微力ながら、忠義を尽くしてきました。そのこともあって、北条政村様の元服の際は、義村を烏帽子親に指名してくださいました。また、愚息の三浦泰村を猶子にもしてくださった。その御恩を思う時、貴殿(泰時)と政村様がもし争ったら、どちらに味方するか、考えることはありました。が、争いは起きず、世は平安であります。確かに、伊賀光宗は、計略を腹の中に持っておりました。しかし、この義村が言葉を尽くして説得したので、光宗は考えを改めたのです」と(鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』)。

つまり、義村の言葉をそのまま信じるとすると、政子との対面の後、義村は伊賀光宗のところに行って、光宗を説諭。その上で、泰時のもとに来たことが分かります。私(義村)が伊賀氏の謀反心を抑えたのだと、泰時にアピールしているようにも見えます。

三浦義村の言葉を聞いた北条泰時は、喜びもせず、驚きもせず、無表情だったとのこと。ただ「私(泰時)は、政村に対し、敵意は持っていません。どうして、敵対していると思うのでしょう」と義村に言ったのみでした。

義村の「不穏」な動きについては、泰時もある程度は掴んでいたでしょうから(油断ならぬ男)との想いは持っていたでしょう。また、自分の感情(心の動き)を悟られまいとしたとも考えられます。泰時が無感情だったのは、そうした理由もあるのではないでしょうか。

が、果たして、この騒動は、これで一件落着となるのか。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

濱田浩一郎の最近の記事