出張帰りに気軽に【安・近・短】で、はじめての「ひとり温泉」を愉しむ
仕事を絡めて、都市と近隣の温泉ではじめての「ひとり温泉」を
女性のひとり温泉の受け入れを推進してきた、群馬県伊香保温泉「洋風旅館ぴのん」の女将・松本由起さんがこんなことを言っていた。
「おひとりの女性のお客様は、リフレッシュしたい主婦やキャリアウーマンが多く見受けられます。男性のおひとりのお客様は、ビジネスで来て、少し足を伸ばした方も多いように思います」
男女共に、多忙極める人なら、丸2日も休みを取ってのひとり温泉はままならないだろう。
最近、私は出張帰りや、仕事前に1日お休みにしてひとり温泉を計画するし、あるいは部分的に4~5時間のひとり温泉を楽しんでいる。
わざわざ有名温泉地まで足を運ばなくても、地方都市の近くにもひとり温泉がしやすい宿はあるものだ。
日本一空港に近い温泉がウリの北海道湯の川温泉。函館空港から車でたった5分。JR函館駅からは市電で約30分。私はここでの宿は素泊まりにし、夕食は地元の寿司屋さんで愉しむようにしている。
湯処秋田県では、実は秋田駅からバスで20分のところに秋田温泉「さとみ」という宿がある。すっきりとした甘さの秋田名物「ババヘラアイス」を売店で購入し、糖分補給しながら入浴を繰り返したことが、心地よかった。
仙台への出張帰りに、松島温泉へ
2024年2月の終わり、冬の仙台で行われたフォーラムに登壇した後に、私は松島温泉を再訪した。前回叶わなかった、松島を照らす月光か、松島湾から昇る朝日を今度は望みたかったから。
松島は仙台から特急で25分ほどだから、17時に仕事を終えてから移動しても、18時半の夕食には、ひとっ風呂を浴びてからで、十分間に合う。
この日も「松島センチュリーホテル」にお世話になった。
松島温泉の中で最も海に近いホテルゆえ、露天風呂の目の前には松島湾が広がる。夕暮れ時に、松島湾に浮かぶ島々をぼーっと眺める。登壇していた緊張感がほぐれ、脳がオンからオフへと移行するのがわかった。
地方都市に近い温泉だと、仕事終わりにすぐ立ち寄れるのがいい。緊張と弛緩の切り替えに、温泉はもってこいなのである。
お湯は、前回の印象と変わることなく、肌の上を転がっていった。
「とろっとろ~、とろっとろ~、」と、思わず口ずさんでしまうほど滑らかなのである。
さて夕食である。
このホテルは半ビュッフェ形式とでも言おうか。サラダや一口サイズのデザートはビュッフェ。季節によって異なるメイン皿は3種類から選べる。私は牛タン赤ワイン煮を頼む。この他、オープンキッチンに行けば、仙台仕込み牛タン焼き、伊豆沼豚カットステーキ、揚げたて天ぷらを何回でも注文できる。懐石料理ではなく半ビュッフェスタイルだと、食事の量を自分で調整できるのがいいな。豪華な夕食を残すのはしのびない。
この日は平日の水曜日。私以外は、高齢者を囲んだ家族旅行風が数組、あとはひとり客が2人いた。私のテーブルから2つ間を置いてスリムな女性客。30代くらいだろうか。少し離れたオープンキッチン近くの席には赤ら顔をした男性客。こちらは40代だろうか。
オープンキッチンで用意される牛たん焼きは、一皿に小ぶりの牛たん2キレがのっている。ぷりぷりしており、タレに漬け込んであったのだろう、噛み応えを愉しむうちにタレが染み出た。旨い! 病みつきになり、もう一皿をおかわり。そしてまた、おかわりをしにオープンキッチンに行く。天ぷらも2回オーダーしに行ったから、もはや通っている状態。「豪華な夕食を残すのはしのびない」は、どの口が言う。
ふと、オープンキッチン近くの席にいた男性のひとり客と目があう。
「おぬし、よく食べるの」と、男性客に言われているような気がした。
私もすかさず「おぬしは、よく飲むの」と、心の中で返した。
男性客とは度々目が合い、互いにひとり温泉をしていることを認識しあう(たぶん)。男性客は料理をつまみに、ひたすら手酌で酒を愉しんでいる様子だった。
女性のひとり客のテーブルには、別注で鮑ステーキ3300円、ビーフステーキ2750円の皿が置かれてある。私と同じく、彼女もオープンキッチンへと通っていた。おかわりに次ぐ、おかわりだっだのではないだろうか。
心の中で「豪勢に、よく食べますな」と女性客に語りかけたが、彼女からの返事はない。一度も目があわなかったからだ。
ちなみに10種類近くあったデザートの中で気に入ったのはずんだ餅。豆皿に、白玉1個とずんだがのっている。香ばしさと甘さに惹かれ、結局、4皿いただく。牛たんにしろ、ずんだ餅にしろ、だてに(伊達に!?)名物ではありませんな。
翌朝、目覚めて客室のカーテンを開けると、青空と松島湾と湾に浮かぶ島々が陽光に照らされていた。
朝食前に露天風呂に行くと、夕食会場で豪勢によく食べていた女性がいた。彼女は、露天風呂の湯船の中階段に腰かけ、半身浴をしながら、ずっと目の前の景色を眺めていた。彼女の視線の先の松島湾には島が10ほど、観光船も3~4隻見えた。観光船で流れる、松島を案内するアナウンスまで聞こえてきた。のどかである。
きっと、彼女は無になるためにやって来たのだ。
※この記事は2024年9月6日に発売された自著『ひとり温泉 おいしいごはん』(河出文庫)から抜粋し転載しています。