【その後の鎌倉殿の13人】北条政子の迫力に三浦義村が漏らした一言とは?
貞応3年(1224)7月17日、近国から鎌倉に続々と集まってくる武者たち。また、伊賀光宗と三浦義村が何やら密談しているという不穏な噂。そうした「動乱前夜」の事態を前に「尼将軍」北条政子は動きます。女房1人を連れて、三浦義村の邸に乗り込んだのです。
政子は、北条政村(北条義時と伊賀の方との子)や伊賀光宗(伊賀の方の兄弟)が三浦義村と密談していると指摘。その上で「もしや、北条泰時(義時の嫡男)を排除する陰謀を巡らせているのではないか!」と義村に詰め寄るのです。政子は話を続けます。
「承久の乱(1221年。後鳥羽上皇が北条義時追討を掲げ挙兵するも、敗北)の時、我らが勝てたのは、天運もあったでしょうが、半ばは出陣した泰時の功績なのです。また我が弟の義時は、数度の戦を鎮め、世を平穏にしてきました。その義時の跡を継ぎ、関東の棟梁となるべきは、泰時なのです。もし、泰時がいなくなれば、御家人たちはまた争うことになるでしょう。貴方(義村)は、政村の烏帽子親(元服の際、親に代わって烏帽子をかぶらせ、烏帽子名を付ける人)。政村方と談合の疑いがある。余計なことはしないでもらいたい」(鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』)と。
この政子の言葉を前にして、三浦義村は何と答えたか。「私は何も知りません」と答えたようです。
義村は、政子の迫力に、内心、たじたじになっていたのではないでしょうか。