ALS嘱託殺人事件 - 安易な「安楽死」議論に逃げる前に

(写真:つのだよしお/アフロ)

これは「安楽死」ではない。医師による「嘱託殺人」事件だ

7月23日、筋萎縮性側索硬化症(ALS)当事者の依頼で薬物を投与して殺害したとして、嘱託殺人容疑で医師二人が逮捕されました。

亡くなられた方は生前、「安楽死させてほしい」と周囲に話していたといいます。この方がどのような背景、経験の中でそうした言葉を発されていたのか、今となっては知ることはできませんし、その意思を責めることもできません。ご冥福をお祈りしながらも、この方が「生きたい」「生きられる」と思えるような支援者や環境ともし出会えていれば…と、残念な思いです。

容疑者の医師は亡くなられた方の主治医でもなく診察経験もゼロ、「医師と患者」の関係はなかった上、1名には医師免許の不正取得疑惑も出ています。

容疑者二人は、「医療に紛れて人を死なせる」方法を描いた『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術』という電子書籍も出版しています。現金130万円を「報酬」に、自らの治療関係にもない当事者の「意思」に乗じて、自らの信念に基づいて殺人を犯したものと推察されます。

事件の詳細がこれからどのように明らかになり、2名にどのような裁定がくだされるのか。ここから先は司法の役割となりますが、明らかになっている事実からも、過去の判例からも、本人の願いを叶えた「安楽死」だと擁護する余地はなく、「嘱託殺人」事件であると私は捉えています(そもそも、これまでの日本で医師による積極的安楽死が法的に認められたケースは存在しません)。

この記事では、嘱託殺人事件の「余波」として起こる「安楽死」を巡る言説の問題や、その背景について指摘したいと思います。

なぜ、このような事件のときだけ「安楽死」「死ぬ権利」が取りざたされるのか

「死にたい」と思うこと、希死念慮や自殺企図を抱くこと自体は、生活のさまざまな要因が重なるなかで誰でも経験しうることです。そうした思いを抱きながらも踏みとどまったり、誰かに助けられたりする人もいる一方で、残念ながら自殺の「実行」に至る人もいます。ここ10年で減少傾向にはありますが、日本では今でも年間2万人以上が自殺をしています。

誰かが自殺を選んだとき、まだ生きている私たちは、ときに個人の繋がりの中で、ときに報道を通して、そのことを知ります。

それが身近な人の死なのか、著名人の死なのか、亡くなられた方との関係によっても、情報に触れた一人ひとりが抱く感情はさまざまです。

「いったいどうしてなのか」という疑問や混乱、「将来のある人なのに」といった悔やまれ方、「心に穴が開いた」ような悲しみ、喪失感。けっして一括りにすることはできませんが、多くの場合は、その人の自死を惜しむ、悔やむ、悲しむといった反応ではないでしょうか。

しかし…まだ治療法の見つかっていない難病であるALSをはじめ、比較的重度の心身機能障害のある人の死に際しては、途端に違う声が混ざってきます。

「本人も生きるのが辛かっただろう」「寝たきりで生きるのはかわいそうだから、死ぬ権利も必要だ」「日本でも安楽死の議論をしなければ」などと、一足飛びに「安楽死」や「死ぬ権利」についての議論が繰り広げられるのです。

まずこの「異常さ」を、私たちは認識するべきではないでしょうか。

こうした言説の根底にある「優生主義」ー簡単に言えば、「役に立たなければ生きている価値がない」という思想の問題については、すでに多くの論客や報道機関が指摘しています。

(筆者も昨年、相模原殺傷事件3年に際して以下の記事を書きました。

「生産性」の呪いに抗うために - 相模原殺傷事件から3年)

優生主義の問題を指摘することの重要性は理解しますが、しかし今回の事件については、別の視点から問題提起をしたいと思います。

それは、優生主義だの安楽死だのをもっともらしく議論する以前に、私たちの社会は、ALSをはじめとする難病当事者の「生活」の実態について、あまりにも無知であるのではないかということです。

「生きたい」と「死にたい」の間を揺れ動く、ALS当事者の思い

ALSは、体を動かす運動神経が老化し、徐々に動かなくなっていく難病です。ALS当事者は、家族や支援者と協働しながら、徐々に症状が進行していくなかで、電動車椅子や、指先・視線での入力が可能なコミュニケーションツール等の導入、住居の改装や訪問介護の利用、気管切開手術といったさまざまな対応・選択を重ねながら生活しています。

「昨日までできていたことが、今日はできなくなっている」

ALS当事者は、発症以降、そのような経験を何度も重ねます。ALSを発症していない私が、その過程での苦しみや葛藤を代弁することはできません。しかし、ALSと共に生きる友人たちの言葉、ウェブや書籍に残された当事者や家族の手記などに触れてきたなかで、この事件に関連して言えることがあります。それは、症状の進行の中で、当事者の気持ちは「生きたい」と「死にたい」のあいだを何度も揺れ動くということ。そして、一時的にでも「死にたい」気持ちに振れた当事者の願いを、今回の事件のように他者が「叶えよう」とすることが、必ずしも「正解」ではないのだということです。

なぜなら、当人の状態も、周囲の環境も、生きている限り変わりうるからです。そして、私たちが、社会の側が、さまざまな手立てを尽くして、少しでも「生きやすい」環境をつくっていくことで、「死にたい」と思っていた当事者の気持ちが「生きたい」「生きていける」に向かっていく可能性は、常に残されているからです。

”私は48歳でALSを発症し、死にたいと何度も真剣に思った。でも社会の支援を受けて、こうして生きている。生きてみようと思えたのは、明るく前向きに他の患者や家族の支援をしている先輩患者を見たからだ。あんなふうに生きたいと思うようになった。ただ「生きたい」と「生きていける」とは違う。介護保険や障害者の生活支援サービスを十分に受けられ、介護者を確保できなければ、すべて家族に頼ることになる。経済的なことも含めて家族に負担をかけたくない、と生きることをあきらめる患者は多い。私も介護態勢をつくるまでに時間がかかり、ぎりぎりのタイミングで人工呼吸器をつけられた。”

出典:朝日新聞, 「死認めて」が奪う生きたい意欲 れいわ・舩後氏の懸念

安楽死議論よりも先にすべきは、「生きる技法」をもっともっと社会で共有すること

冒頭の繰り返しになりますが、今回亡くなられた方が、どのような背景であれ「安楽死」を願ったということ自体は、責められるべきではないと思います。また、容疑者2名の行為や意図も、やはりこれから司法の場にて争われ、認定され、判決が下ることです。

しかし少なくとも、こうした事件のインパクトに引きずられて、ALS等の難病当事者の生活への理解を欠いたまま、拙速に「安楽死」の是非を論じることは、良いことではないと私は主張します。

「現時点で一番懸念しているのは、一つ、SNSで支持をさっそく表明してしまう無思慮無責任な人々が現れているらしいこと、一つ、なにか倫理的に深い問題がここで示されているかのように報道してしまう報道機関が現れてしまうことだ。

出典:立岩真也「やれやれ」

「生きたい」と「死にたい」の間で揺れ動く当事者の背中を、安易に不可逆な「死」の側へと押し出す前に、社会の側でやるべきことはいくらでもあります。

まだ知られ尽くしていない、広がりきってもいない、たくさんの「生きる技法」を共有し、実践すること。それこそがいま必要なことだと私は考えます。

最後に、ごく一部になりますが、ALS等の難病当事者の生活を支え、可能性を広げる取り組みをご紹介します。ぜひこれを機会に、知っていただければ幸いです。

吉藤オリィ 「ALSと出会って7年。ALS患者の皆と可能にしてきた命のバトン」

分身ロボット「Orihime」を通して友人と外出したり、カフェで就労をしたりといった取り組みをご覧いただけます。

一般社団法人 WITH ALS

20代後半でALSを発症した武藤将胤さんが設立した団体です。視線入力や合成音声を活用したDJ・VJパフォーマンスをはじめ、ボーダーレスなエンターテインメントに挑戦されています。

(こちらは筆者が執筆した武藤さんのインタビュー記事です

soar, 僕は社会を明るくしたい。だから、身体が動かなくなっても挑戦し続ける。ALS当事者の武藤将胤さんを駆り立てる想い)

NPO法人ALS/MNDさくら会

ALSの当事者・家族と在宅ケアにたずさわる人たちが設立したピアサポート団体です。介護ヘルパー養成事業をはじめ、ALS当事者が、家族介護だけに依存せず、在宅で自立した生活を送るための環境づくりに取り組んでいます。