「生産性」の呪いに抗うために - 相模原殺傷事件から3年

(写真:ロイター/アフロ)

津久井やまゆり園の事件から3年、地域で、司法で起こっていること

7月26日。相模原市の「津久井やまゆり園」で、障害のある入所者19人が殺害され職員を含む27人が負傷した事件から、3年が経過します。

事件が起こった津久井やまゆり園は、現地での再建の方針。施設で過ごすのか、地域で暮らすのか、入所者120人への意思確認が進められています。

殺傷事件の実行者である植松被告。横浜地裁での初公判は来年2020年の1月8日と決定しました。

残された遺族の方々の痛みや悲しみ。入所者の今後の暮らしの選択。司法の場での審判。何一つ「終わった」とは言えない状況で、事件そのものについて、遺族や入所者、被告個々人について、何かを語ることはとても難しい。

それでも3年が経った今日、何か語るとしたならば、ひとつ確かに向き合わなければならないのは、事件が私たちの生きる社会に投げかけた、「生産性」を巡る問いについてです。

誰もが「生産性」を問われる時代の圧力に抗うために

植松被告は、障害や認知症のある人など、(それはあくまで彼から見てですが)意思疎通がとれない人のことを「心失者(しんしつしゃ)」と呼び、彼らのめんどうを見ている場合ではない、生きていても意味がないと、彼の判断によって、他者の命の線引きをしました。

彼の主張と行動に対して、一人の記者が正面から向き合った様子が、5月19日の「NEWS 23」で放送されました。福岡のテレビ局の記者、神戸金史(かんべ・かねぶみ)さん。息子さんのひとりである金佑(かねすけ)さんにも、重度の自閉症と知的障害があります。(参考: NEWS 23 「なぜ障害者ばかりを?相模原殺傷 被告との対話」【前編】【後編】)

番組では、手紙でのやり取りと面会を通して、植松被告が「役に立つ人」と「役に立たない人」の間に線を引いていること、線引きをした植松被告が、自分自身のことも「大して存在価値がない人間」だと思っていたこと、事件を起こしたことで、「役に立つ人」の側に立ったと考えていることがあぶり出されます。

また、植松被告自身も生活保護を受けていたことがある過去に触れ、「生産性」の証明を求められる時代の圧力の中で「彼自身も存在の危機の中に生きていたのではないか」という分析がなされました。

その背景をもって植松被告の行為を免罪するべきとは私は思いません。ですが、植松被告個人や、加害者・被害者、障害者・健常者という枠組みを越えて、現代を生きる私たちは多かれ少なかれ、生産性で自分の価値を測られるのではないかという「時代の圧力」にさらされていることは、確かなのだろうと思います。

植松被告自身も「生産性」の圧力にさらされていたのかもしれない
植松被告自身も「生産性」の圧力にさらされていたのかもしれない

筆者は、障害のある方の就労支援や子どもの発達支援を行う企業に勤める傍ら、個人でのインタビュー・文筆活動やNPO運営等も行い、障害のある方や子どもたち、そのご家族、彼らを支援する人や、多様な人が共に生きる地域社会・コミュニティのありようと物語に触れてきました。

そこで経験してきたことも思い起こしながら、私たちの社会に覆いかぶさる「生産性」の呪いに抗うための2つの戦略を提示したいと思います。

1つは、植松被告のように「彼らは生産性がない」と障害者をジャッジする、無知ゆえの偏見をはがしていくこと、障害のある人を含め多様な人が「共に生きる」実例を示し、広げていくことです。もう1つは、そもそも「生産性」を巡る議論の土台に乗らないこと、生産性を基準としたあらゆる生の線引きを拒絶し、ただ「殺すな」と言い続けることです。

多様な生のありようを「事実」として示し、無知のヴェールをはがしていくこと

ここで当たり前の事実を確認しておきたいのですが、障害の有無にかかわらず、私たち一人ひとりは、みな多様な、誰一人同じでない心身の特徴や人生の歴史を持って生きています。

当然、知的障害のある方と言っても、体格や性格、趣味嗜好、そして知的障害の程度や、それによる生活上のスキルや困難さもさまざまです。

障害の有無にかかわらず、育ちかたは多様である
障害の有無にかかわらず、育ちかたは多様である

ですが、「そもそも人は多様である」という当たり前の事実も、「施設の中にいる重度障害者」と括ってしまうことで見えにくくなってしまうのです。

障害福祉業界では、大型施設による入所型の支援から、地域社会への移行が長く言われてきました。津久井やまゆり園をはじめとする入所型施設の役割は否定しません。ですが、障害のある人とない人が、地域の中で当たり前に出会い、交わる環境をつくっていかなければ、「障害者は生産性がない」といった偏見のアップデートはなかなか進んでいかないと言えるでしょう。

そして実際に、多様な人たちが行き交う地域に開かれた施設を実現している事例、比較的重度と言われる障害のある人が、支援を受けながら地域での自立生活や企業等での就労を実現している事例が、実はすでにたくさんあるということは、もっと知られて良いと思います。

(例:鹿児島の「しょうぶ学園」石川県の「Be's」など。筆者が取材したことのある場所をはじめ、事例は枚挙にいとまがありません)

「役に立たない」「生きていても仕方ない」という植松被告のような決めつけに対して、「こんなふうにみんな生きているよ、暮らしていけるんだよ」ということを示し、広げていくことです。

そしてそのためには何よりも本人の意思を知ろうとし、意思に基づく行動を支援するという姿勢が大切です。

上で紹介した「NEWS 23」でも、神戸記者の息子・金佑さんが、重度の自閉症と知的障害がありながらも自分のペースで成長し、働いてお金を貯め、自分の意思でスマートフォンを購入するに至ったエピソードが紹介されています。

人はちがう。そして、それぞれに変わっていき、成長し、幸福を追求できる。そんな当たり前の事実を、より解像度高く示していくこと。障害の有無や程度だけでもって「生産性がない」と断定する無知や偏見に抗うこと。それが、メディアや企業、地域社会…現代を生きる私たちにできることだと思います。

生産性の土俵に乗らない。私たちの「内なる優生思想」と向き合うこと

人は、知らないことはなかなか想像出来ないものです。得体の知れない存在、自分と違う、遠いと感じられる存在に対しては、ついつい一面的な印象からジャッジをしてしまいがちです。障害のある人たちをはじめとするマイノリティ当事者は、本人不在の状況で作られたイメージによる決めつけを、特に受けやすい存在であると言えます。

だから、「そうじゃないんだよ」「こんなにも多様なんだよ」と示していくことが、先に言った戦略です。これ自体にも意味があるし、まだまだ発信の量と幅が必要なのだろうと思います。

多様な物語を届けていくこと
多様な物語を届けていくこと

ですが同時に、この戦略は植松被告が囚われた「生産性」と同じ土俵に乗って戦うことでもあることに、注意しなくてはなりません。

「障害があっても、こんな風に暮らしていける、働いていける」という”成功事例”を示すことが、さまざまな要因で、現時点ではそれが難しい人たちに対して「いや、できるじゃん、やれよ」というプレッシャーを助長することになっては本末転倒です。

作家の杉田俊介氏は、『相模原障害者殺傷事件 優生思想とヘイトクライム』(青土社、立岩真也・杉田俊介、2017年)の中で、SGA性低身長症である息子さんに成長ホルモンの注射を行う際の自身の逡巡を語りながら、体の大小、成長のスピードといった小さな価値判断から、私たち誰もが「内なる優生思想」に影響されていることを示しました。

本当に必要なのは、私たち自身が「内なる優生思想」に引っ張られずに済むための言葉なのかもしれません。

生産性の大小、自立できる/できない、障害の軽重…どんな基準であっても「生きること」への線引きは、拒絶する。ただ「殺すな、生きさせろ」と、いかなる時代も言い続けること。その上で、先に述べたような短期的・実務的な土俵でも、偏見をはがす反例を示していくこと。そんな2層構造のアクションを続けていくことが、生産性の呪いに抗うための、地味で、長期戦で、しかし唯一実効性のある戦いなのだと思います。

※文中の挿入画像は無料ストックフォトサービスpixabay(https://pixabay.com/)のものを使用