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追悼 ユ・サンチョルさん インタビューで語っていた「上手さ以前に 熱く戦え」

(写真:権藤和也/アフロスポーツ)

 ユ・サンチョルさん(Kリーグ仁川ユナイテッド前監督)が2021年6月7日19時20分頃に亡くなった。49歳だった。

 2019年11月に公表されたがんの治療中だった。その部位は「膵臓」とされてきたが、「スポーツ朝鮮」は膵臓がんについては「13回に及ぶ過酷な抗がん剤治療の末、ほぼ消滅させることに成功していた」とした。昨年7月頃には記者に電話をかけるまでに回復していたが、その後脳へのがん移転が発覚。これがより直接的に亡くなる原因となった点を報じている。

 Jリーグの横浜F・マリノス(1999~2000, 2003~2004)、柏レイソル(2001~2002)で活躍。韓国代表としては98年、02年W杯に出場した。特に02年大会の2-0で勝利したグループリーグ初戦・ポーランド戦での追加ゴールは自国で強く記憶されている。韓国W杯史でじつに54年目にしての初勝利だったからだ。

 同大会の7試合出場を含め、Aマッチ出場124試合、18ゴールを記録した。

写真:築田純/アフロスポーツ

 3度ほど、直接インタビューした機会がある。ポーカーフェイスながら、時折優しい表情を見せる。そんな魅力のある人だった。

 一度目は2004年の正月だった。サッカー専門誌の取材で、赤坂のホテルの部屋がインタビュールームに指定された。この時はF・マリノスで年間優勝を飾り、代表選手としても東アジア選手権(現E-1)でMVPを獲得した直後だった。その東アジア選手権日韓戦のハーフタイム、当時のサッカー専門誌の日本代表担当記者が「あ~今日は仕事にならない。ユ・サンチョルが良すぎてずっと見てしまうから」と言うほどだった。絶頂期だった。取材側とは距離を置きながらも、強い言葉を発する印象だった。

 この時のテーマは「熱く戦う」ということだった。当時のF・マリノスの選手が気持ちを込めて戦う姿について畏敬の念すら抱いていた。そんな話が伝わってきていた。

 こう言い切る本人の姿が印象的だった。

「だって、俺はブラジル人選手のように上手いわけじゃないから。気持ちを出してやらないとJリーグでは生き残れない」

「W杯を経験すると、リーグ戦に余裕をもって臨めるのは確か。そこも自信に繋がっている」

 99年に来日当初は、敗戦後にロッカールームで談笑する日本の選手が許せなかったとも言っていた。

もし1つにポジションを絞っていたなら? の質問に…

 2度目は2011年1月だった。06年に引退後、テレビでの活動などを経て新設の春川機械工業高サッカー部監督に就任していた。

 直接、スマホのメッセンジャー(カカオトーク)でやりとりするなか、会うべく指定されたのは済州島の、それもかなり入りくんだ場所のピッチだった。

 合宿中の練習試合を終えた後、「今日はよろしくおねがいします」と挨拶すると柔らかく叱られた。「島に着いたら連絡してって言ったでしょ~」。確かにそう言われていた。でもこちらはスター選手にどこか遠慮があって、現地のピッチ到着後にはじめて「報告」したのだった。

 じつのところ、「遠くまで来たんだから飯でも食いながら話そう」ということだった。本人はそうは言わないが、海の見えるカフェのオープンテラス席でごちそうになった。カタールで行われていたアジアカップ準決勝日韓戦を控えてのインタビューだった。「そっちはどう思うの?」などと聞かれながら、趣旨と関係のない話を一つ聞いてみた。

 ―現役時代、もしポジションを一つに固定していたのならどこが良かったですか? どこが一番成功できたと思いますか?

「攻撃的MFだね」

 後に資料を見ると、プロデビュー時は3-5-2のサイドMFとしてウイングのような動きをしていたのだという。その後CBから前線まで全ポジションを経験。それでいて1998年にはKリーグで得点王まで獲得している。これほどのマルチロールは後世にもなかなか生まれないのではないか。

いっぽう、欧州で躓くとすぐに自国に戻ってくる若手選手たちについて「踏ん張るべきだ」という意見も。自身が「どうしても欧州でプレーしてみたかったから」だと。この点と、06年W杯出場はついぞ現役キャリアの中では叶わなかった点でもある。

岡田武史監督とも通じた「自らの強み」

 3度目の機会はJリーグの25周年記念のインタビューだった。かつてプレーした外国人選手のうち、インパクトある活躍を見せた存在に当時の話を聞くというものだった。

 監督を務めていた全南ドラゴンズのクラブハウスでの朝のインタビュー。現場で主旨を改めて伝えると、「それに俺が選ばれたんだな~」と嬉しそうに笑った。コリアンJリーガーは多いが、じつはリーグの年間タイトルを初めて獲得した(03年)存在がユ・サンチョルだったのだ。

 この時、話が盛り上がったのは「岡田武史論」だった。03年にF・マリノスに復帰した際の指揮官だ。たびたび「戦え」「闘志を持て」といった点を強調する監督だったが、自分にはそれを言う必要がなかった。だからこそ「気が合う部分があったのでは」。当時右サイドバックを務めた点に関しては「ボランチとしてオファーを受けていた」が、元ブラジル代表カフーの急な契約解除により「日本に来てから急に岡田監督から”右で使う”と言われて…」とも。

 インタビュー後、韓国人の若い撮影スタッフにスマホで記念撮影を求められていた。「嬉しい~ウイイレで使ってるんです」というと、再び表情を崩した。「そりゃ、ユ・サンチョルは必ずチームに加えるよね」などと話していると、部屋のドアがノックされた。コーチングスタッフだった。「練習の時間です」。さっと厳しい表情に変わり、部屋を去っていった。これが筆者にとっての最後の姿となった。

 この時のインタビューでは、98年W杯大会当時を「欧州の選手を化け物か何かだと思っていた」と振り返っていた。しかしその4年後には欧州勢を次々と倒してのベスト4入り。アジアサッカー大変化の時代を生きた稀代のマルチロールだった。そういった存在がJリーグで心血を注いて戦った。これもまた貴重な日韓サッカー史の1ページだ。

 故人のご冥福を心からお祈りします。

写真:アフロスポーツ

吉崎エイジーニョ ニュースコラム&ノンフィクション。専門は「朝鮮半島地域研究」。よって時事問題からK-POP、スポーツまで幅広く書きます。大阪外大(現阪大外国語学部)地域文化学科朝鮮語専攻卒。20代より日韓両国の媒体で「日韓サッカーニュースコラム」を執筆。「どのジャンルよりも正面衝突する日韓関係」を見てきました。サッカー専門のつもりが人生ままならず。ペンネームはそのままでやっています。本名英治。「Yahoo! 個人」月間MVAを2度受賞。北九州市小倉北区出身。フォローお願いします。https://follow.yahoo.co.jp/themes/08ed3ae29cae0d085319/

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