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ギラヴァンツ北九州で引退のFW池元友樹 地元クラブとの「バンディエラともまた違う、濃密な関係」

引退セレモニーで子どもたちにもらったメダルを下げる。16日北九州市にて。筆者撮影

「どのチームが好きなんですか?」という会話。

東京に暮らすサッカー好き同士、よく交わすものだろう。

バルサとか、リバプールだとかは答えない。地元のJリーグクラブを言う。筆者の場合、ギラヴァンツ北九州だ。するとよく、こう返される。

「へぇ、有名な選手は誰がいるんですか?」

必ず、胸を張って答える。

「池元友樹です」

「あー」

およそ「知らない」というリアクション。

だからこそ、北九州のサッカー好きにとって”池ちゃん”は最高なのだ。

1985年生まれの35歳は、地元の小倉北区出身。中井少年団から思永中。高校は東福岡高に行き、その後リバープレート(アルゼンチン)の下部組織で力をつけた。05年、日本に戻った池元の受け入れ先が、当時九州リーグだったニューウェーブ北九州だった。本人はポロっと「アビスパ福岡の入団テストに落ちた」という過去を教えてくれたこともある。

以降、計12年間チームに在籍した。その間、チームは「ギラヴァンツ」と名を変え、Jリーグに昇格した。北九州でのリーグ戦では通算325試合出場で103ゴールを記録している(前身のニューウェーブ時代を含む)。

池元のプロでの成績。筆者作成
池元のプロでの成績。筆者作成

2020年シーズンは16試合出場で1ゴール。30節以降は41節の”引退試合”を除いてベンチ入り出来なかった。「ここ数年、いつ限界が来るかと思っていた」と本人が話すなか、12月14日に引退を宣言。22日に引退会見を行った。

引退セレモニーでのスピーチ時/筆者撮影
引退セレモニーでのスピーチ時/筆者撮影

彼は「バンディエラ」なのか?

「バンディエラ」という言葉がある。イタリア語なのだという。

「チームに忠誠を誓い続ける象徴的存在」

一般的には1チームに「ずっと在籍し続けた選手」というイメージか。海外ではフランチェスコ・トッティによく使われ、日本では中村憲剛などに使われる。

じゃあギラヴァンツ北九州にとっての池元友樹という選手がそうなのか。

2005年から2020年までの16シーズンのうち、”12年間”チームに在籍した。

4年足りない。

その間、07年にJ1柏レイソルに移籍し1試合の出場に終わると、そこから08年と09年にJ2(当時)の横浜FCにレンタル移籍した。2015年にはJ1だった松本山雅に迎えられ、完全移籍。しかし1年でクラブに舞い戻ってきた。

小技が利き、運動量が多く、左右両足でシュートを決める。だから他のクラブが欲しがった。去った。そして戻ってきた。そこに地元との「特別な関係」がある。

ラストゲームではリードした展開で終了間際に出場。試合のクローザーの役割をしっかりと果たした/筆者撮影
ラストゲームではリードした展開で終了間際に出場。試合のクローザーの役割をしっかりと果たした/筆者撮影

思わず「取材者としての一線を越えてしまった」存在

16日の引退セレモニー(第41節モンテディオ山形戦後)を眺めながら、池元と過ごした12年間のことを思った。

2010年、最初のJ2昇格の時には「シーズンを通じて1勝」と苦しんだ。池元はFWの位置で31試合に出たもののわずか2ゴールと結果が出ず、左サイドで起用されることも。彼自身も苦しむ姿を目にした。いっぽう2014年には「カウンターから手数を少なく攻める」というスタイルがはまり4位に躍進。この時も浮かれることはなく「なぜ結果がいいのかはっきりと自分たちも分かっていない不安はある」と口にしていた。

個人的に思い出すのは、チームの調子が悪い時、取材エリアで彼に強く意見したことだ。

2018年の試合で一番強く言った。J3で最下位になったシーズンだ。10月13日の第27節SC相模原(アウェー)戦後。この年はクラブ史上初のシーズン中の監督交代により、戦術が崩壊。6月20日から就任した柱谷哲二監督のもと、「攻撃時に人数をかけて前に行こう」ということをまず考えて戦う状態になっていた。新監督就任後、一時好転したかに見えたが、またこの試合で逆戻り。試合後こう声をかけた。

「何がしたいん? 前に行くこともできない? シーズンを通して一つのことも出来ない?」

池元はその時「すみません」と謝った。それまでも幾度が「叱咤」のかたちで「何がしたいのか伝わってこない」というような意見はしていた。筆者とて、かなり下手くそだったが小倉の街で10代の頃はボールを追っていた。チームに対して強い感情が湧き出てくる。だからこそ「意見するなら同じ地元出身の池ちゃん(池元)だ」と思ってもいた。

思えば、そういう存在がいるのはとても”贅沢”なことなのだ。チーム最古参選手で、一番多く言葉を交わしてきた選手が、地元出身だなんて。

ただ、あの相模原戦後は言いすぎた。選手とて出来の悪い試合は内心腹が立っているだろうに。それでも「期待されている」ということをしっかり受け入れるキャラクターはあった。元来の優しさもあるだろうし、アルゼンチンで経験した強い自己主張の文化の影響もあるのではないか。そう見ている。

そのかわり、いいときも積極的に声がけした。好調時のバロメーターは、ボールを足裏に置き、トントンとタッチしながら(時に後ろに引きながら)相手との間合いを取りつつ、視野を確保する動きがあることだ。これはきっとアルゼンチンスタイルなんだろう。少なくとも北九州っぽくはない。

池元は時々、いなかった

いっぽうで池元の引退セレモニーを観ていてまた別のことを思った。

引退セレモニーで家族から花束を贈呈される。チームメイト全員は11番のシャツを着て偉大なるプレーヤーを見送った/筆者撮影
引退セレモニーで家族から花束を贈呈される。チームメイト全員は11番のシャツを着て偉大なるプレーヤーを見送った/筆者撮影

クラブの歴史で一番苦しかったのはJ3の時代じゃない。

九州リーグにいた2005年や2006年だ。クラブの体制を整えたが、2年連続で昇格を逃した。まだまだ未熟な日本のサッカー環境では、昇格していかなければ、行政を含めた周囲に認められない。だから先の見えないなか、ひたすらにもがいた。

池元もそこにいた。

シーズン途中に前身のニューウェーブ北九州に加入した05年は10試合でなんと15ゴール、06年は16試合で12ゴール。あまりの活躍に、地域リーグを勝ち抜いたFC岐阜がシーズン途中でレンタル移籍を申し入れた。この時がクラブとしては一番苦しかったのだ。北九州は2年連続で「地域リーグ決勝大会」への出場を逃していた。

まるで都市対抗野球の「補強選手」だ。東海地区代表として同大会に出場するFC岐阜に期限付き移籍し、6試合出場でハットトリック1回を含む7得点の大爆発。岐阜の準優勝に貢献した。さらにホンダロックSCとの入替戦2試合にも出場、岐阜のJFL昇格に貢献した。

そんな大活躍を見せたもんだから、07年には柏レイソルに去ってしまった。北九州のクラブのほうは、池元が去った後にようやくJFL昇格。そこも2年で通過したが、いずれも彼はいなかった。

地元でこそ輝いた秘訣「ここで米食って…」

はっきり言って、クラブのほうが池元に追いついていなかったのだ。2010年に柏レイソルからのレンタル移籍という形で戻ってきてくれた。それはギラヴァンツがJリーグ加盟に成功し、この年からJ2で戦うことになったから可能なことだった。

さらに2014年のJ2で5位の大躍進後、2015年の1年間はJ1だった松本山雅へと去った。これもクラブが池元に追いつけなかったから。

ラストゲームでピッチに入る前、空を眺めた。「このスタジアムでピッチに入っていく風景は最後なのかな。目に焼き付けておこう」と思っていたという/筆者撮影
ラストゲームでピッチに入る前、空を眺めた。「このスタジアムでピッチに入っていく風景は最後なのかな。目に焼き付けておこう」と思っていたという/筆者撮影

フラれたけど、待っていた。そして戻ってきてくれた。「背番号11が彼のシンボル」と言ってしまいたいが、はっきり言って柏からレンタルで加わった2010年は「9」だったし、松本山雅から復帰後は「14」だった。これもある意味、「フラれた時の傷」だ。

だからこそ生まれた濃密な関係。

なぜ最高かというと、そういった時を経ながらも北九州で一番活躍してくれたからだ。J1で過ごした07年(柏)、15年(松本)は2年間で計9試合1ゴール。J2だった横浜FCでの08年、09年は2年で72試合11ゴールと活躍した。しかし年間を通しての活躍――つまりキャリアハイ(最多出場試合数、最多ゴールともに)を北九州で刻んでくれた。前者は2014年の42試合、後者は2017年の16ゴールだ。

手元のデータを見直すと、Jリーグ28年の歴史のなかで、2010年加盟のギラヴァンツは「Jを目指す宣言をした時点で地域リーグだった」という存在としてはおよそ5番目だ。99年加盟の水戸ホーリーホック、アルビレックス新潟、05年のザスパクサツ群馬、09年のファジアーノ岡山に次ぐ。だからこそ他のクラブではなかなかない「地域リーグから共に戦った選手」という希少価値がある。近年はJ3に昇格してくるクラブのほとんどがそうだから、もっと増えてくるのだろうが。

練習場でも大人気だった。子どもにサインをする池元/2019年シーズン開幕前。筆者撮影
練習場でも大人気だった。子どもにサインをする池元/2019年シーズン開幕前。筆者撮影

16日のラストゲーム後、本人に聞いてみた。

――セレモニーのスピーチではすべての所属クラブへの感謝を伝えていました。でも池元選手は地元で一番活躍したと信じています。実際にそうでしょう。改めて、地元でプレーする感覚というのはどういうものだったのですか?

「やっぱり、家族とか友達が見に来てくれますから。そういう近さ、安心というのは他県のクラブでプレーした時とはまったく違いましたね」

まあ「優等生」の発言だが、ある時、ポロっと「ここで米食って、暮らしてきたからですよ!」と言ってくれたこともある。

ローカルスターだからこそ輝いた。自分たちにとって最高。だからこそ最高。いなかった時間もある関係性がオリジナルだから、さらに最高。

そんな存在だった。

いやいやこれからも好きな選手を聞かれれば「池元友樹」と答える。そうやって池ちゃんは自分たちの中に存在し続けるのだ。

ゴール裏を眺める。本当にそうだ。ともに戦った日を忘れない/筆者撮影
ゴール裏を眺める。本当にそうだ。ともに戦った日を忘れない/筆者撮影

吉崎エイジーニョ ニュースコラム&ノンフィクション。専門は「朝鮮半島地域研究」。よって時事問題からK-POP、スポーツまで幅広く書きます。大阪外大(現阪大外国語学部)地域文化学科朝鮮語専攻卒。20代より日韓両国の媒体で「日韓サッカーニュースコラム」を執筆。「どのジャンルよりも正面衝突する日韓関係」を見てきました。サッカー専門のつもりが人生ままならず。ペンネームはそのままでやっています。本名英治。「Yahoo! 個人」月間MVAを2度受賞。北九州市小倉北区出身。フォローお願いします。https://follow.yahoo.co.jp/themes/08ed3ae29cae0d085319/

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