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[センバツ]初出場・和歌山東の奮闘で思い出したあの夏、「東北のバンビ」の活躍

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

 春夏通じて、初めての甲子園だった和歌山東。1回戦では、倉敷工(岡山)を延長11回で降して2回戦に進んだ。四番を打った中川大士の父は、元阪神の申也さん。うかつにも、スポーツ紙の報道で初めて知った。なんでも、アルプスから声援を送った申也さんは、「自分が出場したときより、見ているほうが緊張します。胃が痛かったですが、ほんまにうれしいです」と笑顔だったとか。

 自分が出場したとき、というのはまず1989年の夏だ。申也さんは秋田経法大付(現ノースアジア大明桜)の1年生エースとしてマウンドに立った。

 その夏、県内での下馬評は決して高くはない。春は県大会に進んだものの初戦負けで、攻撃力には定評があったが、エースが不在。だがノーシードから登場の夏は、1年生左腕の中川申也が救世主となる。

 県内でも雪の多い平鹿郡山内(さんない)村(現横手市)に生まれた中川は、山内中学3年の夏、63回連続無失点を記録して県で準優勝した。4連続完封のうちのひとつが完全試合という、劇画のような投球だった。それでも高校に進むと、先輩たちは「すぐに野球部をやめるのでは」と思ったらしい。童顔、きゃしゃな体、まだまだ中学生のようで、ハードな練習についてこられそうもなかったのだ。

 だが夏の県大会が始まると、2年生の先輩・杉本宗人捕手が「僕のサインにも平気で首を振るし、マウンドに呼びつけるし……」というように、顔に似合わないマウンド度胸を見せつける。5試合すべてに登板し、4試合を完投。ストレートとカーブの緩急を巧みに使い、しかも制球よく、準決勝では12三振1失点。トータルで36回3分の2を投げて8失点という安定感は、背番号10ながら実質エースといっていい。当時の鈴木寿監督は、

「中川が育った山内村では、冬になると大人も子どもも毎日、雪かきをするんです。中川家の場合、運送業をしているお父さんが家を空けることが多いので、中川が毎日雪かきをする。それで鍛えられた下半身が強い球と、コントロールの土台になっていると思います」

雪かきで鍛えた強じんな足腰が……

 秋田大会では、打線も活発だった。チーム打率・379。松岡勇樹と安保勲の三、四番がともに・571で、杉本正人、宗人の2年生双子コンビのうち正人はチーム最高打率の・615を記録。決勝の4回には、この打線が打者13人の猛攻で8点をたたき出し、センバツ出場校の秋田を一蹴している。

 そして甲子園でも秋田経法大付は、投打のかみ合った戦いを見せた。出雲商(島根)との初戦(2回戦)は、中川が2安打8三振で完封し、打線も13安打で5点。6回まで無安打に抑えられた出雲商・成相和男監督は、こう嘆いたものだ。

「中川君は、本当に1年生ですか? コントロールはいいし、ストレートは伸びるし、カーブの角度も鋭いし……」

 3回戦は、中川の5安打1失点完投で星稜(石川)に3対1。準々決勝、福岡大大濠に1対0、中川は5安打完封。つまり中川は、3試合27回を1失点、防御率0・33に抑えたことになる。1年生投手としては、77年夏に準優勝した東邦(愛知)のバンビ・坂本佳一か、80年夏準Vの早稲田実(東京)・荒木大輔(元ヤクルトほか)といったアイドルを思い出させる快投だった。174センチ、66キロの細身は坂本にだぶり、ついたニックネームが「東北のバンビ」。こう語っている。

「甲子園のマウンドは投げやすいです。スタンドはいつも人で埋まっているので、気持ちがいい。最高のところです」

 物怖じしない度胸は別として、ついこの間まで中学生だった童顔には、さしてすごみがあるわけじゃない。ストレートの初速も、最速は134キロだ。だが、終速が130キロとほとんど落ちない。いわゆる、手もとで伸びるまっすぐ。これが低めにズバッと決まり、右打者の内角ひざ元に鋭くカーブを落とされては、打ち崩すのは至難だろう。

 ただ、3回戦から中1日での準々決勝、さらに連投となる翌日、帝京(東京)との準決勝は、きゃしゃな左腕には過酷だったか。入念なマッサージを施しても、肩のハリは取れない。「全力で投げると痛む」肩をかばって、試合前の練習は遠投だけ。実際にマウンドに立っても、準々決勝までの小気味いい躍動感がない。しかも帝京打線は、吉岡雄二(元近鉄ほか)ら、超高校級の打者をそろえ、前日、海星(三重)との準々決勝では、11点と爆発している。1回に単打4本を集中され、2点を失った。

 ところが、中川がただ者じゃないのはここからだ。「最初は、かわすつもりのゆるいタマが打ちごろになってしまって……それ以後は、スローボールを中心に投げました」。打ち気をそらしながらコーナーをつく軟投で、7回途中で降板するまで、帝京打線をなんとか4点に抑えるのだ。チームは0対4で敗れたが、2年時も春夏の甲子園に出場した中川さんが、結局このときのベスト4が最高成績だった。

 さて、今センバツに話を戻す。次男・大士は、1回戦は無安打。中川さんは「次はヒットを」とエールを送ったが、五番に座った浦和学院(埼玉)戦でも大士は、残念ながら3打数無安打でチームも敗れた。だが、それはいいじゃないか。中川さんにとって、自身の高校時代をDVDで見て、野球にのめり込んでくれた息子が、なによりも誇らしいはずだから。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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