日本野球史で唯一! ロス五輪の金メダルを見せてもらいました

吉田幸夫さんに見せていただいたロス五輪の金メダル(撮影/筆者)

 1984年、ロサンゼルス・オリンピック。本場・アメリカでの開催とあって、野球が公開競技で行われた。当時の代表はアマチュアのみで編成されたが、実は野球の日本代表が唯一、金メダルを獲得した大会でもある。写真はなんと、そのときの金メダル。優勝投手だった吉田幸夫さんに、かつて見せてもらったものだ。

 吉田さんが南部高2年の秋、和歌山県大会。新宮高との一戦は延長18回引き分けとなり、再試合は完投したものの敗れて、近畿大会出場はならなかった。そこで肩を痛めた吉田さんは、下手投げに転向。青山学院大では、140キロを投げる下手投げの速球派として、3年春まで2部で15勝5敗を記録し、3年秋から昇格した1部3シーズンでも15勝(17敗)を挙げた。81年には、社会人野球に参戦間もないプリンスに入社。高校、大学と全国の舞台とは無縁ながら、アンダーハンドは当時の国際舞台では稀少である。さらに、プリンスの強化試合で、世界最強を誇っていたキューバを相手に好投したことが評価され、日本代表入りを果たすと、ロス五輪ではプリンスからただ一人、代表メンバーに名を連ねた。26歳になっていた。

滑り込み出場から金メダル!

 実は日本代表、もともとロス五輪には出場権がなかった。代表決定戦で、台湾に敗れていたためだ。だが80年のモスクワ五輪を西側諸国がボイコットした報復として、ソ連がロス五輪をボイコットすると、最強軍団のキューバも同調。そこで日本が、補欠で滑り込んだわけだ。

 まず8月1日、予選リーグ初戦の相手は韓国だ。先発は宣銅烈(ソン・ドンヨル、高麗大4年・元中日)で、日本は吉田さんを先発に立てた。もともとは、宮本和知(川崎製鉄水島・元巨人)の予定だったが、「当日の朝、松永(怜一)監督に呼ばれて、今日はお前が投げろ、と。大舞台の責任あるマウンドがうれしくて……半面、結果を残せなかったら自分だけじゃなくて、日本の恥になりますから、すごく強い気持ちでマウンドへ向かいました」と吉田さんは回想する。

 すると、アンダーハンドから繰り出すストレートを武器に、7回を1安打無失点と好投。吉田さんによると、「投球スタイルは、真っ直ぐとナチュラルシンカー、カーブが中心。ただカーブは、曲がらないことで有名でした(笑)。大学の日本代表で應武(篤良・現崇徳高監督)が受けてくれたとき、"じゃあ、カーブね"と2、3球投げたんですが、應武は"どうした? 早くカーブを投げろよ"。それくらい、曲がらない。でもそれが、いいチェンジアップ効果になっていたんじゃないですか」。なるほど、ほぼ曲がらずに球速の遅いカーブと、高めに浮き上がるストレートの緩急差には、打者は手こずるだろう。

 そして8月7日、完全アウェー状態のアメリカとの決勝でも、3対1とリードした7回2死満塁のピンチに登板すると、のちにメジャーや巨人で活躍したシェーン・マックを三振に打ち取り、ピンチを脱している。台湾との準決勝でも10回途中まで投げた吉田さんだが、決勝でも「もしかしたら抑えがあるかも、と。むしろ最後、投げさせてもらいたい気持ちもありました」。5万8000という大観衆の敵地で「もしかしたら、ライフルで命を狙われるかも……」と思いながら、9回も投げきって優勝。こうして日本は、滑り込み出場から金メダルを獲得するわけだ。

「これはかなり後になっての話ですが……」

 と吉田さん。2013年、大津プリンスホテルの総支配人として皇太子、現在の天皇を出迎えた。

「その前日、宮内庁の方から、プライベートでは野球について質問されると聞いていたんです。実際に当日、部屋へ通じるエレベーターに乗ったときに尋ねられました。"五輪で優勝されたときは、どんなご気分でしたか?"と」

 質問を想定し、あらかじめ考えていた吉田さんの答え。

「日の丸が真ん中のポールに揚がり、君が代が流れたときは最高の気分でした。君が代はこんなにも最高の曲だったのだな、と思いました」

 37年後のいま。コロナ禍での五輪開催に、懐疑的な声は大きい。実際問題、開催にこぎ着けるには、精神論では飛び越えられないいくつものハードルがあるだろう。だが、もし望みうるなら……日の丸が揚がるシーンを、21年の東京で見てみたい。どの競技でも、だ。