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ノムさんに勝った名将、逝く/都市対抗野球優勝3度、垣野多鶴さんのこと その1

楊順行スポーツライター
1996年のアトランタ五輪で日本は銀メダル(写真:ロイター/アフロ)

 最後にお目にかかったのは、2018年。00、03、05年と、3度の都市対抗優勝を振り返ってもらう雑誌の企画だった。三菱ふそう川崎の休部により、NTT東日本に移って監督を務めていたころは、周囲がぴりぴりするような厳しさがあったが、13年限りで勇退すると、まとう空気はいたって柔和になっていた。

「泣いたのは、05年に優勝したときだけだね。野球に関しては、高校最後の試合でも泣いたことはなかったのに、あのときだけ、ね」

 垣野多鶴さん。そう話したときの、照れくさそうな表情が忘れられない。

 長崎・佐世保工から東海大に進み、遊撃手、二塁手としてベストナインを6回獲得。1974年に三菱自動車川崎(01年からは三菱ふそう川崎)に入社すると、持ち前の強打で打線の核となった。80年からは選手兼任で監督を務め、89年限りで勇退すると、96年にアトランタ五輪の代表コーチとして銀メダル獲得に貢献している。その後も、シドニー五輪の代表チームづくりをサポート。シドニーからはプロアマ混成チームとなるのだが、社会人選手発掘のため、都市対抗の行われている東京ドームに足を運んだときのことだ。

「なぜか、ピンときたんだよね。理由はわからないけど、暗示にかかったように、"都市対抗は、優勝できるぞ"。最初に監督をした10年ではベスト4が最高で、頂上はとてつもなく遠く感じていたのに、なぜか"優勝できる"って。不思議だよね」

 あくまで、「もし、もう一度監督になったら」という仮定の話。だが、チームが98、99年と連続して都市対抗出場を逃した99年のオフ。まさかの監督復帰が実現する。10年間離れていたチームは「横着というか、生意気になっていた」。基本をないがしろにし、自分勝手なプレーも多い。それでも、もともと個々には潜在能力がある集団だから、垣野さんの統率力でひとつになれば力を発揮する。すると、3年ぶりに出場した都市対抗で、「ピンときた」という予感そのままに初優勝を飾るわけだ。

衝撃の代打初球スクイズ

 01年に三菱ふそう川崎と名称を変え、2度目の優勝を果たすのは03年のことだ。語りぐさは、野村克也監督率いるシダックスとの決勝戦。0対3から同点に追いついた7回の攻撃は、なおもふそうが1死一、三塁と攻めたてた。ここで、垣野さんが動く。五番の桑元孝雄に代えて、代打に左の三垣勝巳を。すると野村監督も、野間口貴彦(元巨人)から左腕・上田博之にスイッチ。垣野さんはさらに、代打の代打に右の石塚信寿……目まぐるしい展開だ。その一瞬の虚を突き、垣野さんは初球にスクイズを仕掛けると、まんまと逆転に成功した。結局、ふそうが5対4で逃げ切るのだが、野村監督をして「一番悔しい負け方」とうめかせる勝負師の初球スクイズだった。

 だが、垣野さんによると、そのスクイズよりも印象に残る場面があるという。

 社会人球界は前年の02年、それまでの金属バットから木のバットに回帰していた。ふそうは打棒が売り物のチームだから、これは逆風……かと思いきや、垣野さんはむしろ、しめたと思った。「金属の時代でも、ウチは基本的に木で練習していましたから、ほかのチームが対応していない分、アドバンテージになる」と。そして木のバットにより、ロースコアの争いが増えると見て、徹底的に守備を鍛え直していた。シダックスとの決勝、リードされた中盤の1死一、三塁。

「アントニオ・パチェコが、セカンドゴロ。ふつうなら、併殺崩れで1点入ってもおかしくないゆるい当たりです。ところがセカンドの佐々木勉が、二塁まで10メートルほどをバックトスして併殺、無失点で切り抜けた。ロースコアになるからこそ守備を重視した成果ですが、あれは大きかったよね」

 だが……ミスター社会人野球といわれた西郷泰之らが脂の乗りきった翌04年。垣野さんが「もし都市対抗に出ていたら、連覇できたと思う」と語るその04年、三菱ふそう川崎は激震に見舞われることになる。(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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