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東日本大震災から10年② 宮城高校球界に輝いていた公立の星2校

楊順行スポーツライター
第83回選抜高校野球大会では、「がんばろう! 日本」が特別スローガンとなった(写真:アフロスポーツ)

 東日本大震災から2カ月ほどの2011年5月、宮城県を訪ねたことは前回書いた。そのときには東北、仙台育英のほかにもいくつか学校を回っている。09年の秋に宮城県で準優勝した、石巻商もそのひとつだ。長年1回戦ボーイに甘んじていたチームを、創部90周年で初めて東北大会に導いたのが水沼武晴監督(所属や肩書きは当時、以下同)だ。

 仙台商OBの水沼監督の就任は、07年。だが、「当時はショックでした。とにかく、勝てる状態じゃない」と就任時のチームを振り返る。前年には不祥事を起こし、グラウンドは雑草に覆われ、野球未経験者もいた。長年、名門を見てきた目からは、ともかく考えられないレベルだった。だがその分、吸収力も高い。翌年に入学してきた選手たちを中心に、09年秋には東北大会出場を果たすわけだ。

 社会人では日本製紙石巻、大学では石巻専修大とアマチュアの強豪を擁し、さらにおらが町の県立高校の活躍……野球の盛んな石巻の町がわき返った。東北大会こそ初戦負けだったものの、その活躍を見た市内の有望な中学生も、11年度から入部することになっていた。

 だが、“あの日”。学校のすぐわきを蛇行する旧北上川を逆流した津波は、堤防の上限すれすれまで増水し、破損した水門から濁流がグラウンドに流れ込んだ。体育館は避難所となり、部員はボランティアに奔走する日々。深さ70センチに達した水がグラウンドから引いても一面のヘドロで、除去されたのは4月11日、消毒などの処理をしてようやく練習が可能になったのは、21日のことだった。

練習にはマスクが必須だった

「そういう事情は、被災地どこでもある程度同じです。ただね……」

 と水沼監督が表情を曇らせたのは、敷地を接する広大な一帯が、がれきの集積場になっていることだ。その山は校舎の2階ほどにもなる。有害物質のせいか目やノドの痛み、頭痛を訴える者もいて、練習時もマスク着用だ。加えて、自転車がおもな通学の足となるため、7時には完全下校で、練習時間も不十分。各自で素振りなどはしていても、40日間チーム練習を休み、さらにそういう制約。水沼監督は語っていた。

「私も高校3年の80年夏、県大会の決勝で中条善伸(元巨人など)と投げ合って東北に負けていますが、現状ではなおさら、東北や仙台育英という私学2強に勝てるレベルじゃない。ただ、2強を倒さないと、公立校の甲子園はありません。やればできることを、いつかは見せたいんです」

 春の宮城県大会が中止になったその夏は、水沼監督の母校・仙台商に3回戦で敗れた。その秋は、石巻工と準決勝を戦って敗れたものの、石巻工は21世紀枠で翌春のセンバツに出場している。

 その年の宮城県にはもうひとつ、期待される公立校があった。気仙沼向洋。前年夏の宮城大会では、決勝で仙台育英に大敗したものの、準決勝で東北に逆転勝ちしているのだ。皮肉なことに川村桂史監督は、日体大で東北の指揮官・五十嵐征彦監督の1学年上にあたる。だが、あの日……。

野球、やるぞ!

 もともと水産高校として設立した気仙沼向洋は当時、海まで200メートルほどに位置していた。M9の巨大地震が発生した午後2時46分は、打撃練習の真っ最中だった。巨大な揺れ。しかも長い。グラウンドの左翼方向は地割れし、水が噴き出した。揺れが落ち着くと、校舎に残る職員が叫んだ。「津波が来るぞ!」。あわてて選手たちを高台に避難させると、川村監督は校舎へ駆け込み、他の職員らと協力してまず重要書類などを上層階に上げた。そこへ、津波が到達。第1波、第2波……4階の床までが水につかり、避難した屋上で凍てつく夜を明かした。破損したタンクから漏れた燃料に火がついたのか、遠方には不気味な炎も見えた。翌日、水が引いたのを見計らって脱出すると、避難所となった学校でボランティアに従事した。川村監督はいう。

「まず生命の維持。次に生活すること。3月いっぱい、それが最優先でした」

 後輩にあたる東北・五十嵐監督によると、「いくら電話をかけてもつながらない。ようやく電話がきて、"無事だ。試合、頑張れよ"という声を聞けたのは、センバツのために大阪入りして数日後でした。声を聞いた瞬間、ホッとして涙が出てきた」。そういう状態だから、野球をやっている場合ではない。

 だが、4月に入ったある日。「家を流されたり、避難所生活を送ったり、野球部員の心も決壊ぎりぎり。子どもたちの不安を、少しでも取り除こう」と、本吉響・小野寺三男監督から提案があった。小野寺監督は気仙沼水産・日体大を通じての先輩で、川村の前の向洋の監督でもある。その声に背中を押されるようにして川村監督は、キャプテンに電話をかけ、こう呼びかけた。

「野球、やるぞ! 絶対気持ちを切るな。みんなにもそう伝えてくれ」

 4月10日。気仙沼向洋は、震災後初めての練習を行った。ただし、校舎が壊滅的なダメージを受けたため、気仙沼西のグラウンドで、本吉響とともに3校合同の自主参加によるものだ。それでも、24人の部員中18人が集まった。5月に新学期が始まってからは、本吉響のグラウンドで2校による合同練習となった。

「実は当初、練習を開始するのにはためらいがあった」と川村監督は明かす。

「絶望的な状況から、ようやく日常生活を取り戻すスタートを切ったばかりでしたから。ただ、実際にボールを投げ、バットを振るときの彼らの笑顔や大声が、輝いていたんです。用具などを支援くださった方に元気をアピールするためにも、ああ、やってよかったな、と心底から思いました」

 10年夏の宮城大会では、甲子園まであと一歩と迫った気仙沼向洋だが、11年夏はさすがに2回戦敗退。その後もなかなか上位進出とはいっていないが、19年夏にはベスト16まで盛り返している。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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