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東日本大震災から10年① 宮城高校野球の2強・仙台育英と東北はそのとき……

楊順行スポーツライター
第83回選抜高校野球大会では、「がんばろう! 日本」が特別スローガンとなった(写真:岡沢克郎/アフロ)

 実体験したわけではないですが、まるで太平洋戦争の映像で見た、空襲直後の都市のようでした……そんな印象を、若生正広氏に打ち明けたことがある。宮城出身。母校・東北の監督を務めた時代には、ダルビッシュ有(現パドレス)をエースに、2003年の夏の甲子園で準優勝を果たした。11年の東日本大震災当時は、九州国際大付の監督。宮城の自宅が被災したが、その年のセンバツでも準優勝していた。後年、九州を訪ねたとき。11年の5月、若生氏の故郷・宮城を取材したときの話になったのだ。

「そう、そうだよねぇ」

 若生氏は、独特のだみ声で答えてくれたものだ。

 それにしても……言葉がなかった。まるで巨大な怪獣が蹂躙したかのような町。6階建てのビルの屋上に車が乗っている。腐乱した魚のような、ヘドロの臭い。信号の手前までは日常の景色が広がっていたのに、右折すればがれきの山で、左折すれば折れ曲がった信号機。地球の営みには、なんの悪意もない。だからこそ、人の無力さがやりきれない。

「練習を始めたばかりの時間でしたが、とんでもない揺れに立っていられなくて、はいつくばりました。グラウンドの照明は鉄塔が3本足なんですが、それが大きな揺れで1本に見えるくらい。揺れは約3分間、周囲の建物が崩れる音なども聞こえてきました。これは途方もないことになっている……」

 仙台育英(当時。以下、肩書きなどは当時のもの)の佐々木順一朗監督は、11年3月11日をそう回想した。仙台塩釜港から同校のグラウンドまでは、直線で2キロ弱ほど。同じ敷地の学校施設も含めて水浸しになり、一般生徒をはじめ約600人が敷地内の建物で夜を明かした。やがて、被害が明らかになってくる。仙石線の列車は横転し、グラウンドから500メートルもない三陸自動車道の橋脚には、ひしゃげた車が何重にも突き刺さっている。仙台港で船に積まれるはずの車両が、何台も津波に流されてきたのだった。さらに同校の宮城野校舎も、立ち入り禁止になるほどの損壊を受けたという。

ひしゃげた車が橋脚に……

「その直後は野球のことなど頭に浮かばず、まずは家族の安否確認。部員には親戚を亡くしたり、家がなくなった者も何人かいました。また県外の子は親元に帰したり、安全の確保や生活をすることが最優先で、優先事項の中に、野球はありませんでした」

 それでも4月29日には、グラウンドのある多賀城キャンパスに全校生徒を集め、なんとか入学式。多賀城の既存施設や、プレハブを利用するなどして5月13日から授業を開始した。野球部も、グラウンドや野球用具に被害はなかったため、5月の連休あたりから練習試合をスタートするなど、通常の練習に近づいた。

 仙台育英と並ぶ宮城の強豪・東北には、23日開幕のセンバツ切符が届いていた。だが被災直後は野球どころではなく、出場を辞退すべき、という空気にもなった。それでも、ボランティアに従事しながら地元の激励を受け、出場を決断。大会では、全国のエールを受けながらも大垣日大に1回戦で敗れた。センバツから戻ると、まずはボランティア活動だ。1週間遅れの4月16日に入学式があり、例年より多い38人の新入部員を迎えた。徐々に練習の環境が落ち着いてきたのは、4月下旬のこと。23日に初めての練習試合をこなしたうちには、花巻東との対戦もあった。4対6で敗れたが、2年生右腕・大谷翔平(現エンゼルス)から4点を奪ったのは、打線にとって大きな自信になったと五十嵐監督は語っていた。

 その五十嵐監督は、ナインにこう提案した。

「センバツでの君たちは、立派だった。われわれを支えてくださった全国の皆さんに、相手はだれとは特定せず、感謝の手紙を書こう」。主将だった上村健人は、こう記している。

『(今回の震災で)人は支えられている事、今までの生活があたり前と思っていた自分の未熟さ、そして何より野球ができるありがたみを感じました。(後略) 東北高校野球部主将 上村健人』

 コロナ禍のここ1、2年にも、そのまま通じる言葉だ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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