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もしかしたら野球を辞めていた? 岩隈久志・堀越高校時代の秘話

楊順行スポーツライター
マリナーズ時代の2015年にはノーヒット・ノーランも達成した(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

「辞めます」

 岩隈久志が、そういってきたことがある。堀越高校(東京)1年秋の新チーム。当時の監督だった桑原秀範さんに聞いた話だ。桑原さんといえば1982年、母校・広島商を率い、決勝では全盛期だった池田(徳島)に敗れたものの、夏の甲子園で準優勝。83年には堀越に転じ、98年に同じ堀越学園が運営する穎明館(東京)に移るまで、堀越を春夏5回、甲子園に導いた。井端弘和(元中日ほか)らは教え子。さらに09年には広島商の監督に復帰し、11年まで率いている。その桑原さん、「辞める」と直訴した岩隈を、おお、辞めろと突き放したそうだ。

「そうしたら、練習に出てこなくなって(笑)。まあ、(出身の東大和)シニアの監督さんに怒られ、半月ほどで復帰しましたが」

 と桑原さんは笑う。

 むろん、岩隈の投手としての資質は高く評価していた。

「柔らかさ、腕の長さ、しなり、腱の強さ、身体能力、むろん上背も含めて、ピッチャーとしての資質は非凡なものがありました。ただ、まだ下半身ができていなかった。体重だって70キロなかったでしょう」

 そもそも、投手候補にはほかのポジションを経験させるのが桑原さんの指導スタイルだ。体づくりのほかにも、投手の練習だけだと動きに偏りが生じるため、それを是正したいという意図もある。そこで、桑原さんが岩隈に指示したのはサードのポジション。ライン際で踏ん張って一塁に投げること、またフィールディングの動きがピッチャーに通じるためだ。ただ……。

もともと左利きだからこそ、理に叶ったフォーム

「当時の指導はいまと違って、選手にはこちらの意図なんて説明しません。すると親の心子知らずというか(笑)、私の意図がわからないんですね。もともと岩隈は単純な男ですから、サードなんておもしろくない、投げられないのなら辞める……ときたわけです」

 小学校3年から投手ひとすじだったのだ。慣れないサードではエラーもするだろう。当然、怒られるのは不本意だ。体づくりの一環として、偏食を直すために寮住まいも経験したから、プレッシャーもストレスもあっただろう。これらが積もり積もって、一時は退部寸前となったわけだ。

 だがなんとか思いとどまり、練習に復帰すると、2年の秋には満を持して投手に復帰。公式戦初登板となった秋のブロック予選決勝・都久留米戦では、水を得た魚のように7回を無失点に抑えたそうだ。桑原さんのシナリオ通りである。

「スピードはびっくりするほどじゃなくても、ストレートに伸びがある。きちんと低めに制球できるうえ、長い腕が遅れてくる感じなので、これはおもしろいと思いましたね」

 その秋は結局、都大会1回戦で桜美林に敗れた。桑原さんも堀越を離れたため、岩隈の3年時を見ることはなかったが、翌年春は都大会ベスト8。夏も、春に敗れている日大三に敗れ、西東京のベスト4止まりで甲子園には縁がなかった。それもあって、まさかプロから岩隈に声がかかるとは思わなかったという。

「性格的にも、井端らのようないい意味での要領のよさがなく純朴で、プロ向きではないと思っていたんです。それが、プロに入ってから4、5年はかかると見ていたのに、2年目から活躍(4勝)したのはびっくりしましたね。理にかなった投げ方で、故障とあまり縁がないのがよかったかもしれません」

 もともとは、左利き。右で投げようとすると、無意識のうちにもっとも負担の少ないフォームになったのでは……というのが桑原さんの見立てだ。のち、なにかの会合で顔を合わせたとき。「よかったなぁ。あのまま野球を辞めていたら、何億円も稼げなかったな」。桑原さんは、そういって岩隈をからかったという。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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