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バドミントン・全英オープンを制したフクヒロって? (2) 「ドラフト外」だった福島

楊順行スポーツライター
シングルスで鍛えたコートカバー力は福島由紀の大きな武器だ(写真:ロイター/アフロ)

「大して強くもないのに、なぜ自分が? まさか……と、不思議な思いでした」

 野球でいえば、知名度も実績もない球児が、いきなりプロ球団にドラフト会議で指名されたようなものか(もっとも現行のドラフト制度では、プロ志望者はあらかじめ届けを出すけれど)。フクヒロの一角・福島由紀が、故郷・熊本から女子バドミントンの強豪・青森山田高校に進学したときを振り返る。

「(坂本)中学時代なんてもう全然弱くて、全国大会は中3(2008年)の全中のシングルスでベスト16に入ったのがせいぜい。県内の高校に進もうかな……と思っていたら山田から誘いがあり、一度練習を見学に行きました。それで"ここなら強くなれそう"と、親に"山田に行きたい"と直訴して進学を決めたんです」

 1993年、坂本村(現八代市)に生まれた福島がバドミントンを始めたのは、久多良木小2年のころだ。両親(眞一さん・知加子さん)もなにかスポーツをさせたいと考えていたし、6歳年上の姉・香織さんもバドミントンをやっていた。そもそも久多良木小には、部活が野球とバドミントンしかないのだ。知加子さんが振り返る。

「小さいころは走るのが好きで。山中の小さな小学校なので、10人くらいの同級生と走り回っていました。2年生のころにバドミントンを始めたんですが、とにかく負けず嫌いで頑固。年が離れているから、バドミントン以外でもお姉ちゃんには負けて当然なのに、悔しがっていましたね」

日本代表の田中志穂は小・中・高校の先輩

 その小学生時代は、05年のABC大会に出場、全小では団体で準優勝し「初めてバドミントン・マガジンに載ったと思います」(知加子さん)。だが坂本中では、全中16強があった程度。なぜ私が山田に……と福島がいうのも無理はないが、1学年上の田中志穂(現北都銀行)が、先に青森山田に進んでいたのもなにかの縁だ。知加子さんが明かす。

「田中さんは久多良木小、坂本中の先輩で、全校で60人くらいの小さな小学校でしたから、学年関係なくよく遊んでいた仲でした」

 それがのち、同じ日本代表としてワールドツアーを一緒に回るようになるのだからおもしろい。それはともかく、故郷を離れて入学した青森山田では、先輩たちのレベルの高さにたじろぐことになる。福島はいう。

「試合で歯が立たないのはもちろん、単複両方をやることに戸惑いました。ダブルスはあまりやっていなかったし、先輩に追いつくにはとにかくがむしゃらにやるしかありません。なんとか1年のときインターハイの予選から出させてもらい、本番も団体メンバーに入ることができたんですが……」

 青森山田では、団体メンバーは大会前に遠征して練習試合をこなし、インターハイ本番に備える。だがそこでの福島は絶不調で、思うような結果を残せず、直前でメンバーから外れてしまった。福島はいう。

「せっかく1年生でメンバーに入ったのに、なんで……と相当悔しく、先生(藤田真人監督)に対しても、態度が反抗的になりました(笑)。しかもチームは団体戦で優勝するんですが、私は応援だけ。また、1年の高校選抜では個人戦に出たんですが、シングルスの1回戦負けです。そういうふがいなさがあり、そこからはひたすら、上級生に勝ちたい、上に行きたいという気持ちだけでした」

 当時のことを、母の知加子さんはよく覚えている。

「高校1年生のころは、"帰りたい"って電話でよく弱音を吐いていました。私はそのたびに"あと2カ月したら、これこれの大会があるんでしょう。それまでガマンしたら"と説得しましたね」

立志式では「バドミントンで五輪に……」

 上昇カーブは、2年になってからだ。インターハイは団体戦でシングルス、篠谷菜留(現太陽ホールディングス)とのダブルスで準優勝に貢献し、個人戦でも高橋沙也加(現日本ユニシス)には決勝で敗れたものの、準優勝を飾っている。さらに全日本ジュニアでは、単複ともに準優勝。単は決勝で奥原希望(現日本ユニシス)に敗れたが、単複合計12試合でもスピードの落ちない戦いは、大いに目を引いた。福島は、振り返る。

「きつい組み合わせだったんですよね。早くに星千智(現日本ユニシス)と当たったり、準々決勝は中学生の大堀彩(現トナミ運輸)とか、いまの日本代表クラスばかりで。だから、決勝まで行ったのはたまたま、という感じでした」

 なにしろ、想定外の"ドラフト指名"から2年なのである。自分自身の潜在能力に半信半疑でも、不思議はない。だが現金なもので、そのころには知加子さんに電話で泣きつくこともなくなっていた。3年になると、さらに手応えを感じた。地元・青森でのインターハイでは団体、篠谷とのダブルスで二冠を獲得。シングルスはまたも奥原に敗れたものの、準優勝を飾っている。「3年前の自分が見たら、驚くと思います」とは当時の福島で、この大会、シングルスの準々決勝では、のちのパートナー・廣田彩花と対戦しているのが興味深い。勝負は、1学年上の福島がストレート勝ちしたが、

「強かったです。スマッシュは全部オンラインにくるし、ネットインばかりで、"なに、この人"って(笑)」

 この時点では、のちにその廣田がパートナーになるとは、思いもしていないだろう。

 福島が「経験がなく、最初は戸惑った」というダブルス。インターハイを制しはしたが、お互いシングルスプレーヤーだった篠谷と組んだ当初は、基本的な立ち位置さえわからない。経験を積む過程では、互いのミスに空気が悪くなることもあった。だが、1年先輩でインターハイを制した田中/市丸美里の姿からコミュニケーションの重要さを再認識し、それが、3年時の二冠に結びついたわけだ。そして12年、福島は故郷・熊本のルネサス(現再春館製薬所)に入社。廣田とペアを組み、オリンピック出場どころかいまやメダル候補に成長した。

「高校時代は"帰りたい"と弱音を吐いていたのが、いまは大きな国際大会で優勝するんですから、びっくりですよね」と話す知加子さん。中学時代、15歳になったときの立志式で「バドミントンでオリンピックに出たい」と話していたことを思い出すそうだ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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