PL学園野球部。復活したら、確かにおもしろい

1983年夏から5季連続出場し、優勝2回準優勝2回。高校野球史上最強のKKコンビ(写真:岡沢克郎/アフロ)

 逆転のPLという枕詞のきっかけになった、1978年夏の初優勝。81〜82年、史上2校目のセンバツ連覇。5季連続出場したKKを中心に、3年間で優勝2回、準優勝2回の83〜85年。史上4校目の春夏連覇を果たした87年……80年代のPL学園はまさに、甲子園の主役だった。春夏の甲子園優勝は合計7回、通算勝利数の96は史上3位……。

 その強豪が、だ。2009年夏を最後に甲子園から遠ざかると、13年には、部内暴力で6カ月の対外試合禁止処分を受け、当時の河野有道監督が引責辞任。それまでにも部員間の暴力やいじめなどが頻発していたため、学校を運営するPL教団側が、野球部の存在に疑問を投げかけた。生徒数の減少も追い打ちをかけ、15年度には新入部員の募集を停止。16年7月の大阪大会を最後に、名門野球部は休部となった。

復活の嘆願書を提出

 だが一時代を築いた強豪で、プロ球界でも一大勢力だけに、休部を惜しむファンは多い。昨年1月には、元巨人などの桑田真澄氏がPL学園野球部OB会長に就任し、野球部復活の嘆願書を学校側に提出。野球部の活動再開に向けた第一歩を記すと、OBチームでマスターズ甲子園に出場もした。OB会長として、教団と数回の会談を重ねた桑田氏は、「最初にお会いしたとき、"復部を考えています"といっていただいた。こちらとしても、復部を要望するだけではなく、どのように復部するかも大事。教団の意向、こちらの意向をいろいろと議論させてもらっている」と、意見交換してきたことを明かした。そして、11日。大阪市内のホテルでOB会総会が開かれ、桑田氏は、「教団は、復部に向けて準備をしている。タイミングや、どんな野球部をつくるか模索している状態」と、復部に向けた進捗状況を報告したという。

 そもそも、パーフェクトリバティー教団を母体にしたPL学園の創立は55年。野球部は翌56年創部で、62年のセンバツに初出場すると、78年夏の優勝など、先述のような輝かしい実績を残している。当初の野球部は、教団の布教、また学校の経営戦略として強化を進めた。全国の教団支部から推薦された200名ほどがセレクションに集まり、合格者は10名程度という難関。たとえば、9期生として入学したのが中塚政幸(元大洋)と戸田善紀(元阪急など)らの逸材だ。中塚は62年センバツ、2年生としてPLの甲子園初出場メンバーとなるが、このときに中学3年生だったのが中村順司氏だ。のちに80〜98年と母校を率い、歴代2位の甲子園通算58勝を記録した名監督だが、62年のセンバツでは、のちにPL名物となる人文字のドットのひとつにすぎなかった。

甲子園58勝の名監督も人文字のドット

 かつて中村氏に、当時の思い出を聞いたことがある。

「中学3年まで、私は福岡の中間というところにいました。それが、PLのセレクションに参加しないか、と誘う人があった。私自身は大した実績もなかったんですが、教団はもともと佐賀県の鳥栖からスタートしていますから、九州には強いネットワークがあったんでしょう。そしてそのセレクションに通り、親元を離れた生活に慣れるために、中3の3学期から付属中学に編入することになりました。父は反対しましたね。野球をするのに、わざわざ大阪まで行く必要はなかろう……。そこで、中学3年の3学期の間、もし弱音を吐いたりするようなら実家に戻れ、という条件がつけられましたが、私はすんなりと寮生活に溶け込めましたね」

 つまり、もしここで中村氏が弱音を吐いて福岡に戻っていたら、1年生の桑田、清原和博というKKを抜擢して優勝する83年夏もなかったことになる。中村氏はPL入学後、1学年上の中塚、戸田らと63年センバツに出場。エースの戸田が実に21の三振を奪って1安打完封した首里(沖縄)との1回戦では、代走としてフィールドに立ち、そのまま守備にもついている。甲子園58勝という大監督が、甲子園でプレーした唯一の試合だ。その中村氏も、11日のOB総会に出席。「マスターズ甲子園に出場したことも、教団には好意的に受け入れられたという話でした」と復部に希望を持ち、教団側も「桑田さんは学園への愛情があふれている。野球部が復部すればすばらしいこと」とコメントした。

 ただ現実的には、復活への道のりは険しい。信者は減少し、学校の生徒数も150人程度と見られるとか。敷地内にグラウンドは残るものの老朽化し、室内練習場や寮は取り壊されている。それでも桑田氏は、「(復部の)早さを競っているわけではないので、しっかりと体制を整えることが非常に大事」と前向き。高校野球ファンとしては、大阪桐蔭や履正社などとしのぎを削る「PL」のユニフォームを、ふたたび見てみたいのだが。