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桑田真澄氏、投手失格寸前だった「PL」で34年ぶり甲子園

楊順行スポーツライター
1983年夏の甲子園で力投する桑田真澄(写真:岡沢克郎/アフロ)

 そもそも「マスターズ甲子園」とは、全国の元高校球児が、出身校別に世代を超えた同窓会チームを結成し、甲子園でのプレーを目ざすものだ。野球を通しての同窓会を行うとともに、生涯スポーツとして発展させ、また次世代に野球の素晴らしさを伝えていくことを目的に、2004年に創設された。全国高校野球OBクラブ連合に加盟(41都道府県679チーム)し、各地区予選を勝ち抜いた代表校が、甲子園球場での本大会に出場し、OB戦各1試合を行う。主催は全国高校野球OBクラブ連合で、朝日新聞社の共催だ。

 この大会に、本体は休部状態のPL学園OBが初出場する。8月の大阪代表決定戦では、春日丘OBに勝利。桑田氏は四番・投手で先発出場し、「校歌を聞いて、涙が出そうでした。甲子園でもPL魂でベストを尽くしたい」と語っていたという。8日の前夜祭では、かつてPLを率い、甲子園58勝を記録した中村順司氏も「桑田のプレーが楽しみ」。なにしろ、PL学園3年だった1985年夏以来、34年ぶりのユニフォームなのだ。で、思い出すのが、かつて巨人在籍時代に氏に聞いた高校時代の思い出話である。

PL時代、ピッチャー失格寸前

「僕はね……高校時代、ピッチャー失格だったんですよ」

 ん? どういうことだろう。PLに入学した1983年、中学時代から評判の投手だった桑田氏は、すぐに練習試合などで登板機会を与えられた。だが、本人曰く「めった打ちばかり」。練習では、すぐに四番に抜擢された清原和博の打ったホームランボールを、球場脇の池から拾う役だったという。

「ですから、1年夏の大阪大会でベンチ入りさせてもらったのも、守備か代打要員だったと思います」

 ただ、その年のPLはどうも、投手力がおぼつかない。実際2回戦、3回戦も勝ちはしたが、最終回によけいなフォアボールを与えたりする。そこで中村監督が、吹田との4回戦の先発に桑田氏を抜擢した。桑田氏はいう。

「負けてもともと、くらいのつもりで僕を先発させたんじゃないでしょうか。なにしろ試合前までは、背番号17のユニフォームでお弁当を配っていたんですから」

 ただ中村監督には期待があった。なにしろ、入学してすぐの遠投では、80メートルほどの距離を「地面と平行、一直線にすばらしい回転のボールが行く。あんな子は、初めて見ました。これが、マウンドからの18・44メートルなら、どのくらいすごいか……」というのが中村監督の印象だったのだ。さらに、吹田との試合が行われるのは大阪球場。当時の南海ホークスの本拠地である。中村監督からは、こんな話を聞いたことがある。

「高校生ですから、プロが使った球場というだけで萎縮してしまうことがあるんです。ですが桑田に聞いたら、中学校のボーイズ時代に登板経験がある、と。それだけで、心理的にはだいぶ違いますから、確信を持って先発を決めたんです」

 だが、その吹田戦。「九番・ピッチャー桑田」とスタメンを発表すると、

「バスに乗り込んで球場に着くまで、だれも話しかけてくれないんです。3年生は"ああ、1年坊主が先発かぁ。もしかしたら、今日でオレの高校野球が終わるのかも……"と考えていたんじゃないですかね」(桑田氏)

 だが、フタを開けてみたら。桑田氏はなんと吹田打線を2安打で完封し、清原氏も公式戦初本塁打を記録した。KKコンビの誕生だ。これで勢いのついたPLは大阪を制し、甲子園でも山びこ打線の池田を桑田氏が完封するなどで、全国の頂点に立つのである。

「ですから……あの吹田戦で負けていたら、勝つにしても完封じゃなかったら、僕はピッチャー失格のままだったと思いますよ。いま、ここでジャイアンツのユニフォームを着ていることもなかったでしょう」

 あるいは、もっと劇的にいえば……吹田戦が大阪球場じゃなかったら、戦後最多の甲子園20勝・桑田真澄と、これも甲子園最多の13本塁打・清原和博という、高校野球史上最強のKKコンビは生まれていなかったかもしれない。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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