Yahoo!ニュース

ネット甲子園 第12日 明石商がベスト4へ。狭間節が冴える

楊順行スポーツライター
甲子園はいよいよクライマックス(写真:岡沢克郎/アフロ)

「ようホンマ、しのぎましたね。しんどくて最後もう、家に帰りたいくらいでした」

 準々決勝第1試合。八戸学院光星(青森)との接戦を7対6でモノにし、春に続いてのベスト4に進出した明石商(兵庫)・狭間善徳監督は、ホッと一息ついた風情だ。1、2回で6点を挙げるも徐々に追い上げられ同点に。7回2死三塁のピンチにエース・中森俊介を投入して防戦し、8回に相手暴投で勝ち越すと、中森が8、9回のピンチをなんとか乗り切った。

 第6日の初戦に先発したその中森、3回戦はお役御免で、この日は先発が有力視されたが、先発は中1日で杉戸理斗。

「温存じゃないですよ。こっちは一戦一戦勝つしかないと思っていますが、コイツらに聞くと"日本一になりたい"。そこから逆算すると、準々決勝の先発は連投のきく杉戸。中森はまだ2年生で、そこまでの体力はありません」

談話も師・馬淵史郎ばり

 理路整然と戦術を語り、ときにウィットに富み、やや毒舌もからませる狭間監督。試合中の派手なアクションもあり、いつも報道陣の大きな輪ができる。明石南高から日本体大を卒業後、縁あって、93年から明徳義塾中・高のコーチに。明徳・馬淵史郎監督から、さまざまな養分を吸収した。99年からは明徳義塾中監督に専念し、6年間で全中4回制覇という空前の成績を残している。だがいずれは、高校野球の指導をしたかった。走者三塁からのエンドランなど、軟式特有の作戦をあえて使わなかったのは、いずれは高校野球を、という意地のためだ。

 おりしも05年、故郷の明石市が、一芸に秀でた民間人採用制度を創設。第1弾は、企業や学校の野球部監督経験者募集で、9人の応募から白羽の矢が立ったのが狭間だった。06年には、念願叶って市立明石商のコーチに。監督就任は翌07年の8月で、夏の初采配となる08年には、西兵庫の4強入りを果たしている。兵庫県高野連の規制廃止を受けて、09年度には、真っ先に縦じまのユニフォームを採用。もちろん、師たる馬淵の明徳に倣ってのことで、最初の胸文字は本家の『明徳』によく似た『明商』だった。だが馬淵に、「ウチに似てるから勝たれへんのや」と茶化され、現在の「明石商業」4文字に変わっている。

16年センバツ初出場から急成長

 16年には、監督就任から丸10年で初めてセンバツに出場。このときはベスト8まで進むと、18年には夏も初出場を果たす。そして今センバツで4強まで進み、急成長をアピールしたのは記憶に新しい。

 だが赴任当時の野球部は、大会では1、2回勝てばいいところ。グラウンドには雑草が生え、ゴミが散らばる。部員は20人かそこら、ボールはわずか20個程度、眉のない選手もめずらしくなかった。

 狭間はそこで、自らの赴任と同時に入学した1年生を鍛えに鍛えた。上級生の練習が終わってから10時、11時まで。もともと明徳時代から、どの程度の力量があれば甲子園に出られるか、体感の物差しがある。馬淵流のメソッドもたたき込まれた。「甲子園に行きたいか」「行きたいです」「きついで」「やります」という対話を繰り返しながら、小さな成功体験を蓄積していく。そういう彼らが08年夏、西兵庫でベスト4になると、以後、兵庫では私学を脅かす存在になった。

「そらぁ、練習は厳しいですよ。強豪私学に勝とうと思ったら、われわれは練習するしかない。夜遅くまでやる、いうても、明徳で中・高のコーチを兼ねていたころから比べれば楽です。あのころは、睡眠よりもノックを打っている時間のほうが長かった」

 狭間監督は、笑いながらそう振り返る。そして定評があるのが、相手を分析する秀でた力だ。対戦相手のDVDを穴の空くほど見て、打者なら苦手と得意、打球方向、投手なら持ちダマと組み立ての傾向、そして監督の思考回路などを丸裸にするのだ。この夏も、「あのピッチャーはスライダーでストライクを取ると、もう1球続ける傾向があるんです」などという狭間監督の解説を、何度も耳にした。

 印象的なのは3回戦の7回、宇部鴻城(山口)に2対2の同点に追いついた8回裏の1点。1死三塁から、打者の清水良が高めのボール球をうまく一塁に転がし、その間に三走の窪田康太が生還したヒットエンドランだ。軟式野球時代はあえて封印していた、軟式特有の作戦。センバツでは、来田涼太の先頭打者&サヨナラホームランで智弁和歌山に勝つかと思えば、緻密で細かい野球も狭間監督の得意技だ。20日の準決勝では、どんな狭間節が聞かれることになるだろうか。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

楊順行の最近の記事