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元ヤクルト・青島健太さんが挑戦する3度目の"転職"

楊順行スポーツライター
東芝在籍時代は、都市対抗に4回出場した(写真は2007年の都市対抗)(写真:アフロスポーツ)

 へえ〜、そうなのか……と思った。元プロ野球のヤクルトで活躍した青島健太さんが、8月に行われる埼玉県知事選に出馬するらしいのだ。報道によると、自民党の埼玉県連が青島さんに出馬を要請。青島さんの関係者は「しかるべきときがきたら、本人からお話しします」とのことだが、告示まで2カ月と時間がないため、要請を受けたら早いうちに結論を出すという。

 初めてお会いしたのは、もう20年ほど前だろうか。まだ現役だったバレーボールの中垣内祐一・現男子日本代表監督との対談で、進行役を仰せつかったのだ。それ以後も、同じライターとして取材現場で顔を合わせるほか、プロ野球OBによるマスターズリーグの会議に同席したり、2005年に社会人野球・セガサミーの監督に就任したときは取材を、あるいはフィットネス用品の展示会ではトークショーの司会をお願いしたりした。

 いろいろな話をうかがうに、なかなか波瀾万丈の人生である。埼玉・春日部高から慶応大、社会人野球の東芝では4年間プレー。1985年にヤクルト入りしたときは、すでに27歳になろうとしていた。

「常識的には遅いですよね。当時はいまと違い、企業スポーツの全盛時代です。そのまま会社にいれば、定年まで安定した生活が保証されていました。実力だけが勝負のプロの世界に飛び込めば、その安定はなくなります。ですが引き替えに自由とか、高収入への道が開けるかもしれない。当時はまだ独身でしたし、もし失敗しても一人くらいなんとか食っていけるだろうと、わりと抵抗なく決断できましたね」

 その85年シーズン、初打席初本塁打を記録するなどしたが、なかなか定位置を獲得できず、89年限りで引退を余儀なくされた。おもしろい、というのは失礼だが、興味深いのはここからだ。

節を枉げずに究極のやせガマン

「夢半ばにしてプロをやめるんですから、それはきつかったですよ。子どものときからずっとやってきた、“野球”というアイデンティティーを喪失するわけですから、背骨がなくなって立っていられないような感じでしたね。ただ引退したら、ありがたいことにいろいろな企業から声をかけてもらいました。それも一流どころです。ヘタをすると、収入の面でもプロ時代を上回るくらい。正直、それらのお誘いには心が動きました」

 ただ、である。青島さんはこう考えた。自分はプロ入りするときに、一度は“安定”を捨てて“自由”や“夢”を選んでいる。その夢がかなわなかったからといって、また安定を求めて企業に入るのではムシがよすぎるし、自己矛盾ではないか。

「だから再就職の話は強烈な誘惑でしたが、すべて断りました。究極のやせガマンでしたね(笑)」

 青島さんはそこから、「野球以外の自分の背骨を、自分は何者かを見つけるために」オーストラリアへと渡った。ちょっと記憶はあやふやだが、ある日出かけた図書館で、たまたまオーストラリアで日本語教師を募集していると知ったのがきっかけではなかったか。もともと、社会人の東芝入りしたとき、

「勉強机と辞書を持ち込んできた。そんな野球選手、初めて見ました」

 と同室者が驚いたほどの知性派である。渡豪してからはおそらく、日本語教師として英語を猛勉強したのだろう。90〜91年のオーストラリア滞在時には、「過酷な環境でも、スポーツが日常にある人々と生活するうちに、“スポーツの魅力を表現したい”という気持ちが固まっていった」と、スポーツライターを志した。

 やがて帰国。だがかつては取材される立場だったとはいえ、ライターとしてはなんの実績もない。元プロ野球選手というキャリアを頼りに、出版社まわりをしているときのことだ。

「雑誌・ナンバーの編集部から宿題をいただいたんです。なんでもいいから、野球に関する原稿を書いてみなさい、と。それで必死に書いたものが、幸いにもそのまま雑誌に掲載された。うれしかったですねえ。初原稿が初掲載。プロ野球人生でも、初打席初ホームランを打っているんですが(笑)、その誌面を見たとき、すごくしっくりきたんです。オレの新しい背骨はこれだ、オレが探していたものはこれだな……とね」

 その後はテレビ、ラジオの解説やキャスター、もちろんライターとして活躍しているのはご存じの通りだ。一方で05年には、その年に立ち上がったセガサミー野球部の監督に就任し、07年の都市対抗に初出場も果たしている。

 東芝のサラリーマンからプロ球界、そしてスポーツジャーナリズムの世界へ。「僕は2回、転職しているようなものですよ」と話してくれた青島さんにとって、知事選への出馬はいわば3度目の転職への挑戦だ。そしてもしかしたら……天職になるかもね。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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