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与田剛氏が中日の新監督に。現役時代の剛球を生んだ秘密とは

楊順行スポーツライター
写真は2013年、日本代表のコーチ時代(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

 与田剛が初めて150キロを体感したのは、中日入りした1990年4月7日、大洋戦でのリリーフだった。開幕戦。しかも同点の延長11回、無死一、三塁からのリリーフだから、ルーキーじゃなくてもしびれる場面だった。

「ウワーッという大歓声でスコアボードを見たら、スピードガンの表示が152か3キロ。アマチュア時代は149キロが最高だったので、あららら、という感じでしたね。ただ初登板ですし、あの試合自体そんな余裕はありませんよ」

 かつて取材したとき、与田はそう振り返ったものだ。

サインミスだったプロ初球

 実は、プロで投じた第1球はサインミスだったという。大ピンチでの登板。捕手・中村武志(のち横浜など)の要求は、フォークに見えた。デビューの1球である。まっすぐを投げるものと決めつけていた与田にとっては、「えっ、ここで初球フォーク? やっぱりプロはすげえな」。肚をくくって投じたフォークは、力が入ったのかショートバウンドした。「そしたら、中村が血相を変えて、ものすごい勢いで止めてくれました。サインはフォークじゃなく、まっすぐだったんです(笑)。それにしても、よく止めてくれました。もしパスボールだったら、開幕戦のプロ初球で暴投を投げ、それが決勝点……。ショックから、そのままつぶれても不思議はなかったでしょう。ですから中村にはのちのち、"オマエがオレのプロ野球人生をつくってくれたよ。ありがとう"といっていましたね(笑)」

 与田はその年8月15日の広島戦では、157キロという当時のリーグ最速も記録し、結局31セーブをマーク。新人王と最優秀救援のタイトルを獲得することになる。その後千葉ロッテ、日本ハム、阪神と渡り歩いたが、肩やヒジの故障もあり、実働期間は長くはない。それでも、その名前通りに残した"剛球"の印象は鮮烈だった。

 そもそも小学生のころから、自分の投げる球は速いと感じていたという。

「大の長嶋ファンだった父親の影響で、ヒマさえあれば自然にキャッチボールをやっていました。小学校4年でクラブに入り、6年生になって初めて試合をすると周りが"与田は速い"。あれでその気になり、自信を持ちましたね。ただコントロールが悪くて、いつもぶつけてばかり(笑)。君津市の周西中学でも背番号は1ではなく7番で、エースではなくたまに投げる程度でした。

 高校は木更津中央(現木更津総合)に進み、1年のときにはなんとか17とか18とかの大きい背番号をもらい、2年の秋から1番。3年のときはベスト16で市立銚子に負けました。当時の高校生はスピードガンなど無縁で、何キロくらい出ていたのかなあ。ただ練習試合で、印旛高校の左のいいピッチャーと投げ合って、1対0で勝ったことがあるんです。印旛といえば、2学年上がセンバツ準優勝しているチームで、僕らの代も本当に高校生か、と思うくらいすごかった。そのときの蒲原(弘幸監督)さんが、"オマエがウチにいてくれたら全国制覇できる"といってくれたのがうれしく、自信になりました」

一体どれだけ投げたんだ

 高校からは亜細亜大学に進むが、わずか1勝しかしていない。本人は「力がなかった」と謙遜するが、3年時に血行障害で手術した影響もあるだろう。投球過多が招いたアクシデントだった。

「高校時代から、毎日最低300球は投げていたんです。多いときには、1日1000球もめずらしくない。投げて覚えるしかないと思っていたんですが、いまではナンセンスですよね。大学でもけっこう投げていると、3年のとき、真夏なのに指が冷たく、赤みもまったくなく、ある日血豆が壊死してポロッと取れたんですよ。あわてて病院に行ったら"これは血が通っていない、血行障害です"。高校時代から続いた投げすぎで、人さし指と中指の手のひら側のつけ根に知らぬ間に筋肉がついていて、それが手のひらの血管を圧迫していたそうです。医者がビックリしていましたよ、一体どれだけ投げたらそんなところに筋肉がつくんだ……(笑)。

 で、すぐに切ったんですが、むずかしい手術だったらしいです。ついてしまった筋肉を切りすぎても、速いボールを投げられなくなるし、残しすぎてもまた血管を圧迫するし。結局最初の手術から半年後にまた手術し、リハビリ、マッサージ、筋トレ……で、感触がもとに戻るまで、最初の手術から1年はかかりました」

 幸運だったのは、大学時代に1勝しかしていない与田が、社会人野球のNTT東京(現NTT東日本)に入社できたことだ。テストを受けたのはリハビリを経て、やっと立ち投げができるようになったころ。それでも、故障前の投球や練習試合の印象から、なんとか合格にこぎつけたのだった。

「もし入社できなかったら、僕の野球は大学で終わっていたかもしれませんね。その社会人1年目、春先は調子がよかったんです。ただ、調子に乗ってまた投げすぎて肩を壊してしまい、夏の都市対抗はスタンドで応援です。もどかしくてね。ほかの選手は大学全日本に選ばれたり、甲子園経験があったりのエリートばかりで、実績がないのは僕だけなんです。翌年には、もしダメなら部をやめようと決意するほど崖っぷちでした」

何球かに1球の感覚を保存する

「そこで考えたのは腕の位置、投げるときの腕の高さです。それが一定していないから、いい球がコンスタントに投げられないんじゃないか。人間、腰の動きは意識してもなかなか変えられないものですが、持って生まれた腰の使い方があるのなら、それに合う腕の位置を探せば、いつもフォームが一定するはずだ、と。それにはまず土台を、ということで、ポール間100往復とか、それはそれは走り込みましたね。

 やがて2年目の春のある日、ブルペンで、"なんだ、いまの?"とビックリするくらいの球を投げたんです。もちろんそれまでも、地面をつかまえる左足の感覚がよくなり、腕の位置もしっくりするポジションで一定し、と少しずつよくなってはいました。それが突然、いままでにない感触の1球です。それを再現したいとポイントを意識しながら投げたら、もう1球同じ感触。意識と反応が、いままで以上に直結し始めた感じなんです。よし、ここでイッキに覚えてしまえと、ブルペンで300くらい投げ、クラブハウスでシャドウピッチングをやり、夕食後には鏡を見ながらまたシャドウを300と、夜中までずっと取り組みました。いま手にしかけている感覚を確実に身につけたくて、寝るのが惜しいくらいだったんです。その日を境に、大きく変わりましたね。意識とボールが一体化してきたというか、目からウロコでした」

 それが剛球投手・与田剛につながるわけだ。

 この取材をしたのは10年以上前だが、最後に与田が明かしてくれたエピソードがおもしろい。

「高校時代は結局、甲子園には行けませんでした。プロになってから初めて足を踏み入れたわけですが、なんともいえない感慨がありましたね。あの蔦のからまった外見に(注・当時はリニューアル前)、ああ、これか。グラウンドに入ると、すぐにマウンドに行ってパノラマで見渡し、これがオレのあこがれた球場なんだな……。インタビュー通路はどこだ、とウロウロしたり(笑)。初めて投げたときには、土を落とさないようにスパイクをはたかず、そのままケースにしまったんですよ」

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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