Yahoo!ニュース

ノーヒット・ノーラン達成! 山口俊の高校時代

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

いろいろあった山口俊の高校時代

「目標は、4大会制覇です」

 からだ同様、でっかいことをいっていた。2004年神宮大会を制した柳ヶ浦には、その権利があった。そのカギを握ったのは、柳ヶ浦のエース・山口俊だった。ちなみに4大会とは神宮大会・センバツ・夏の選手権・国体のことである。同一年度に完全制覇したのは1997〜98年の横浜しかない。

 当時の山口俊は、横浜の4大大会制覇の原動力だった松坂大輔に匹敵する力量があると見られていた。MAX146キロ。優勝した神宮大会決勝でも、あわやノーヒットという快投を見せている。8回まで無安打に封じられた愛工大名電・倉野光生監督によると、「最後まで球威が落ちなかった。バントさえできないんですから……」ということだ。

 当時で187センチ、86キロという見事な体格は、父・久さんから受け継いだ。

「小学校6年で、身長は170センチを越えていました。整列するときは、いつも一番後ろ。そういえば小学生時代に、大人料金をとられそうになったことがあります」

実家のちゃんこ屋さんに行ってみました

 久さんは、大相撲の元幕内・谷嵐(2010年没)。故郷の中津市で、ちゃんこ料理の『なりや』を営んでいたときに、たずねたことがある。中津といえば大横綱・双葉山の出身地で、相撲が盛んな土地柄。山口も小学校2年までは、相撲のけいこをしたが、野球のほうがおもしろくなった。豊陽中時代には、大分県で優勝。ただし「ときどき相撲の大会にも出て、優勝していましたね」と、久さんは笑っていたものだ。

 高校進学時は、県外の強豪からも引く手あまたで、久さんの母校・中津工からも熱心に誘われた。現役時代、OB会から化粧廻しをいただくなど、中津工にはなにかと義理があった久さんだが、高校進学にあたっては息子の意志を尊重した。自分の好きなところに行きなさい……。

 柳ヶ浦に入学してきた山口を見ると、当時の藤久保茂己監督はほれ込んだ。「とにかく、体が強かった。半面器用なところもあり、硬式にもすぐに対応しました」とエース候補に抜擢。入学すぐの5月の大会から中津工との試合に先発させ、コールド勝ちながら完封している。

 1年夏の大分大会では、準決勝で7回を零封、決勝戦も先発を任されるなどすでにエース格。甲子園でも、この大会で優勝する常総学院を相手に2回を1安打無失点。「5月の中津工戦、そして甲子園と、もし打ち込まれたら遠回りしそうなハードルを、順調にクリアしてきました」(藤久保監督)。2年夏の甲子園出場はならなかったが、新チームでは九州大会を4連投して541球を投げ抜き、初優勝の立役者に。そして、大分勢8年ぶりのセンバツ出場を確定的にして乗り込んだ神宮大会も制覇したのだ。小学生時代から山口を知っていた当時のキャプテン・久恒康裕の山口評がおもしろい。

「昔から球は速かったです。小学校時代、僕が唯一打てなかったピッチャー(笑)。アイツのタマを受けたいこともあって柳ヶ浦に来たんですが、最初は3つのミットをとっかえひっかえでした。キャッチングが未熟なせいで、すぐにヒモが切れたんです。ただ自分は、スピードよりもコントロールが山口のよさだと思っています。ボール1個分の出し入れができるんです。だから大崩しないし、リードしていて楽しい」

 あらためて当時の原稿を読み直したのだが、懐かしいなあ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

楊順行の最近の記事