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注目! ドラフト/9 気になるあの選手 阿部翔太(日本生命)

楊順行スポーツライター
阿部翔太の地元での日本選手権。日本生命は初戦、11月4日にJX-ENEOSと対戦(ペイレスイメージズ/アフロ)

 3年目の今季、都市対抗デビューは初戦の先発だった。三菱日立パワーシステムズ戦では、計5四球と制球が定まらないこともあり、3回3分の2で降板したが、そこまでわずか1安打(ホームラン)の1失点。収穫も課題もある初登板だった。

「大会前、腰痛で投げ込みができず、急ピッチで仕上げたのでフォームがばらばらでした。フォアボールはふだんほとんど出さないんですが……。ことに下位打線に与えてしまったのが悔しいですね」

 この150キロ右腕、いくつかの偶然がなければ誕生していなかった。高校は、大阪から山形の酒田南へ。1年秋からキャッチャーとしてベンチ入りを果たすと、2年夏にはファーストを守って甲子園へ。順調だった。だが……。

「2年の秋、翌年に下妻(貴寛・現楽天)が入学してくると聞いたんです。地元の子なので、体が大きくてすごくうまいのは知っていました。捕手としては正直、抜かれると思ってピッチャーの練習を始めたんです。走るのも、苦ではなかったですね」

 なにしろ、小学生以来のピッチャーである。最初は、野手が投げているようなものだったというが、成長は急ピッチ。3年夏の甲子園出場はならなかったが、山形大会では、東海大山形を完封しているのだ。スピードはすでに、140キロに達していた。

いやいや参加した練習で……

 成美大(現福知山公立大)でも、成長は続く。1年春からリリーフを中心に11試合に登板し2勝1敗、防御率2.87で新人王を獲得すると、その秋も救援で2勝。球速が150キロに達した2年秋には開幕の先発を任され、1安打完封を遂げている。ただここで、右ヒジの筋断裂を発症。ほぼ1年間は投げられない状態が続いた。3年秋に復帰し、4年時は春にフル回転すると、秋の途中にはその反動か、今度は肩を痛めた。

「プロに行きたかったんですが、まず大学の知名度がないので、全国大会に行かなければ無理だろう、と。監督から、日本生命の練習参加の話があったときも、"レベルの高さはわかっているし、恥ずかしいからイヤです"と最初は断ったんです。結局、"どんなレベルか、経験するだけでいいじゃないか"といわれていやいや参加したんですが、シート打撃に投げてみたらそこそこ通用する。それでも、いざ採用になったときは、"マジで?"という感じでした」

 それが4年の夏である。つまり、もし下妻が酒田南に入学してこなければ。あるいは日本生命の練習参加を断っていれば。さらにさらに、その練習参加時に、すでに肩が痛くなっていれば。どれかひとつが満たされなければ、日本生命の投手・阿部翔太は存在していないかもしれないのだ。

「ですから下妻に会うと、僕は"お前のおかげでここまでこれた"といいますし、アイツは"レギュラーを取って申し訳ない、でもプロになれたのは翔太さんのおかげ"と(笑)」

 日本生命の1年目は「肩の痛みがあり、ほとんど投げていない」が、2年目の夏すぎから本格化し、日本選手権で二大大会デビュー。毎年、春先に故障して出遅れる反省から今季は、

「トレーニングに力を入れました。その結果として、八分の力でもキレを出せる感覚をつかんだ。社会人のピッチャーは、球速が同じだとしても、大学生よりキレが違うんですよ」

 そうして、3年目にして初登板を果たした都市対抗予選では、チーム最多の13回3分の2を投げて防御率1.32。第一代表での本大会進出の原動力となっている。ドラフトで指名があるかどうかは微妙なところだが、日本生命入りのときのように、"マジで?"というサプライズがある……かもしれない。

あべ・しょうた/1992.11.3生まれ/大阪府出身/178cm80kg/投手/右投左打/酒田南高→成美大→日本生命

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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