広島カープ、優勝へ着々。1975年の初優勝を、衣笠祥雄が回想する その1

懐かしの広島市民球場。目の前には原爆ドーム(写真:アフロ)

 1950年の球団創設以来、"セ・リーグのお荷物"といわれていたカープ。衣笠祥雄が入団した65年以降も、ずっと低空飛行が続いた。それが75年には、球団創設26年目の初優勝。3年連続最下位だったチームに、転機があったとしたらどこなのか。

「まず、75年のオールスターでしょうね。7月19日の甲子園での初戦、(山本)浩二と私が2打席連続アベックホーマーを打ち、セ・リーグが8対0で勝ったんです。すると翌日のスポーツ新聞に、『赤ヘル軍団現る!』などという大見出しが出た。あれがチームを勢いづけたんじゃないか、という気がしてならないんですね。

 そのオールスターでは、大下(剛史)さんも盗塁を決めるなど活躍したし、外木場(義郎)さんも好投しました。これで、オールスター組以外の主力も『われわれは、もしかしたら強いのではないか』と自信を持ち、なにより"赤ヘル"というキャッチフレーズも、語呂がよかったですよね。

 ただ当初、ジョー・ルーツ監督が導入した赤い帽子とヘルメットには違和感がありました。初めて見たときには、これはえらいことになった……と思いましたよ(笑)。僕らの世代では、赤い帽子というのは小学校の運動会でかぶるくらいで、ことに野球をやる人間は帽子といえば黒か紺、白くらい。赤というのは、男が身につける色じゃないと思っていました。ルーツにとっては、戦う姿勢を示すシンボルカラーだったんでしょうが、その違和感はなかなか消えず、オールスターくらいまで引きずっていました。ただ、いざ『赤ヘル軍団』と呼ばれてそれが定着すると、ああ、赤でよかったな、と。"黒ヘル"じゃあ、不気味じゃないですか(笑)」

「優勝を狙う」といっても胸中は……

 この75年は、衣笠にとっても大きな転機だった。それまでの一塁手から三塁にコンバートされ、背番号も28から3へ……。

「コンバートのアイデアは、ルーツです。これは僕の推測ですが、ヘッドコーチとして入ってきた74年の夏ごろから、ルーツは翌年の監督就任を打診されていたんじゃないかな。もしそうなったらホプキンスを獲得して、一塁を守らせる。一塁の衣笠は、三塁に動かして……などと、構想を温めていたのではないかと思います。水面下で、リサーチもしていたのでは。そうじゃなければ、あまりにも手際がよすぎるでしょう。なにしろ監督に就任してすぐ、東映から大下さんを獲得しましたから。当時のウチにとって、一番の適任者がいないというのは、74年のシーズンを通して見えていたことなんです。

 それはともかく、74年シーズン後の秋季キャンプで、ルーツから三塁へコンバートの話があった。僕としては、正直悩みましたね。なにしろそれまでに守ったことがあるのは、捕手と一塁だけでしょう。曲がりなりにも、一塁手として主力でやってきた自負もある。ただルーツがうまいのは、決して押しつけないんですよね。

『三塁をやらないか。イヤならば一塁でもいいが、アイデアとしてはいいと思う』と。いまにして思えばこのとき、公にはなっていなくても、ホプキンスの獲得がほとんど決まっていたんでしょう。僕としても悩みはしましたが、周囲の意見なども聞き、別のポジションにチャレンジできるのは、年齢的にいましかない、と受け入れました。やがて年が明けると、球団から『背番号3はどうか』という電話がありました。長嶋(茂雄)さんが引退されたので、背番号3の三塁手というイメージを受け継ぐのはなかなかいいな、と思ったものです」

 そして正式に、ルーツ監督が誕生する。当時としては異例の外国人監督に対して、チームの反応はどうだったのか。

「まあそこまでも、僕が入団して10年で監督が5人。とくに72年は途中で根本(陸夫)さんが休養して森永(勝也)さん、73年は別当(薫)さん、74年はまた森永さん……というように、毎年監督が替わっていましたから、とくに戸惑いはなかったですね。コミュニケーションにしても、通訳さんがいらっしゃるわけですし。ただ、万年Bクラスで、3年も最下位が続くと、口では『優勝を狙う』といっても、腹の中では『無理無理』と思うものですよ。悲しい話ですが、それが弱いチームのホンネ。ベストを尽くさずに負けるのなら、まだ言い訳の余地がありますが、いくら頑張っても最下位の繰り返しでしょう。やっぱりウチには力がないんだ、と思うのはしょうがありません」(続く)