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もうすぐドラフト・その8[社会人編]……近藤均

楊順行スポーツライター
この欄が問題のジンクス? グランドスラムNo.45より

史上3人目の男になった。

王子・近藤均。今年の都市対抗初戦で、直球主体にカーブとカットボールが冴えてセガサミーを4安打10三振、1対0で完封すると、Hondaとの2回戦は6安打されたが、

「捕手からの返球を早くし、テンポよく投げれば打者も打ちにくい」

と、4併殺に切って取った。日本生命との準決勝も、緊迫の投手戦は0対0のまま延長戦にもつれ込んだ。その時点で、27回連続無失点。過去85回の長い都市対抗の歴史のなかで、3試合連続完封は2人しかいない。つまり近藤のゼロ行進は、実質、それに並ぶというわけだ。

「ジンクスを、破りたいんです」

この大会期間中に、そう話しかけられた。社会人野球雑誌の、春季キャンプ取材。各チームの注目選手として、王子では近藤をとりあげた。「だけどウチでは、あそこに載った選手は例年、結果がよくないんです」(近藤)。破りたいジンクスとは、そのことだ。

福知山成美高から関西大を経て入社したが1、2年目と思うような投球ができなかった。昨年の都市対抗予選で敗れ、代表を逃すと、「このままでは登板機会はない」と、厳しく奮起を促された。最速147キロという力任せで、メリハリがなかったからだ。だが、先輩の助言で力を抜くコツを覚えると、そこからは急カーブで洗練されていく。

「がむしゃらに全力で投げるより、リリースだけに力を入れる。そのほうがむしろタマにキレが出て、打者が詰まってくれるんです」

もっと早く気づけよ、と本人は自嘲するが、それからは日本選手権最終予選でJR東海を完封するなど、目に見えて結果が出始めた。カーブとカットボールでカウントを稼ぐかと思えば、ズバッと強気にインコース。すっかり、ピッチングのツボをつかんだようだった。

チーム内ジンクスを破れ!

そして今季は、「ダメだったら引退する」くらいの覚悟で、稲場勇樹監督に背番号19を背負うことを直訴。13年に阪神入りしたエース・山本翔也の番号で、そのまま空き番になっていたものだ。すると決意のほどを示すかのように、トレーニングを上乗せした近藤の体は一回り大きくなり、2次予選では4試合で3完投。うち2試合が完封で、そして「試合前、吐き気がしたほど」の重圧の都市対抗本番も連続無失点……。日本生命との準決勝10回も、ゼロに抑えた。だが、11回裏。一死三塁から決勝打を浴び、29イニング目に"1"が入る。ゼロ行進が途切れ、近藤の涙とともに、王子の都市対抗も終わった。

イニングの頭の近藤は、しゃがみながらプレートをさわり、頭上を見やり、抑えることを誓う。関大時代に肩を痛めてくじけていたとき、中学時代の友人が励ましてくれた。だからこそ、野球を続けられたという思いがある。若くして病魔に倒れ、世を去った彼への、「お前の分まで」という誓いだ。涙のあとの、近藤。

「心と技術がかみ合い、本当のエースになれたと思います」 

部屋にある彼と2人で撮った写真にも、そう告げたことだろう。ちなみに、3試合連続完封を達成した過去2人は、いずれもプロ入りしている(西村一孔、佐々木吉郎)。すでに近藤が、王子のジンクスを破っていることはいうまでもない。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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