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夏の甲子園/私のお気に入り 第9日 鳥羽・京都二中の魂

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

「なんで勝てるのか……わかりません」

鳥羽・山田知也監督は首をひねる。津商に4対2で競り勝ったあとだ。

「核になる選手もいない、チームとしての特徴もない。強いていえば……われわれ指導者にも子どもたちにも、野心がまったくなく、ふだんどおりの試合ができていることかな」

そもそも京都府大会前にたずねたとき、

「復刻ユニフォームで一人だけ行進するのではなく、できるなら全員で行進したいんですが……」

と語っていたものだ。京都には龍谷大平安など、強豪校があまたいる。そこを勝ち抜くだけでも大変なのだ。

鳥羽といえば、第1回大会に優勝した京都二中の継承校。そのあたりの事情については、同校の藤田雅之教諭からレクチャーを受けたことがある。

「鳥羽こそいまの高校野球、あるいは甲子園の生みの親といって間違いないと思います」

その"授業"によると……京都二中の開校は1900(明治33)年。野球部は01年に創部し、市内のチームと盛んに練習試合を行っていた。10年には、創立10周年記念として、早稲田大との招待試合が行われた。大学屈指の強豪で、当初は大人と子どもくらいの差があるとみられていたが、二中は8回まで同点と互角の戦いを演じる。

その5年後、4月。早稲田と接戦を演じたバッテリーで、当時京大生の高山義三と旧制三高野球部主将の小西作太郎が、後輩の練習を見学し、こう話し合った。今年の二中は強い、京都の覇者を決める大会をやってはどうだろう……それが全国大会という構想に発展し、朝日新聞社に企画を持ち込む。すると8月には、本当に全国中学優勝野球大会が実現するのだ。その記念すべき第1回の優勝が、いわばいい出しっぺの京都二中というわけだ。

それから100年。山田監督は、

「目に見えない勢いがあると思います」

という。たとえば、京都翔英が優勝候補の龍谷大平安を延長で破り、翌日その翔英を圧倒したこと。立命館宇治との決勝では、相手は前日延長15回を戦ったばかりだった。しかも立命館宇治を率いるのは、84年に開校した鳥羽を、00年春から3季連続で甲子園に導いた卯瀧逸夫監督。

「卯瀧先生に勝つのは、個人的に初めてでした」(山田監督)

という因縁もある。さらに、16強進出を決めたこの日。藤田教諭から、こんな話を聞いた。

「大会創設にかかわった小西さんは、土の配合を考えるなどして、甲子園球場の建設にもたずさわっているんです。そして小西さんのお孫さんがいらして、"作太郎の魂は、まだ成仏していないぞ"とおっしゃるんです」

おそらく、第1回以降に優勝していない、ということなのだろう。藤田教諭と話したのは、満員のアルプスだった。立錐の余地もないほどの混雑で、さがすのをあきらめかけた瞬間、目の前にいらした。これも、目に見えない力か……。

鳥羽高校が甲子園に復活出場したのは、ちょうど京都二中創立100年の00年センバツだった。そしてやはり100年の節目に、大会創設に強く関わったチームの躍進。第1回の決勝の相手は、秋田中だった。もし、もしである。決勝が、鳥羽と秋田商という対戦になったらドラマチックだなぁ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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