Yahoo!ニュース

さらば、ドカベン。高校時代は、こんなにすごかった!

楊順行スポーツライター

ドカベンこと、香川伸行さんが亡くなったという。52歳。年齢が近いので、むろん高校時代に取材したことはない。一度だけお会いしたのは、南海(89年の1年だけダイエー)を引退し、野球評論家のかたわら野球教室を運営している05年だった。牛島和彦(のち中日など)とのバッテリーで、甲子園のヒーローだった浪商(現大体大浪商)当時の話をたっぷりと聞いたのだ。

香川さんは、おもむろにこう切り出した。

「いまのプロ野球がおもしろくないのは、選手に個性がなくなったからやと思うんです」

自身が、きわめて個性的な選手だった。香川さん、というより“ドカベン”のほうがいい。水島新司氏の野球漫画。主人公の明訓高校・山田太郎は太っちょで、しかも巨大な弁当“ドカベン”をぺろっと平らげる大食漢だ。ところがいざ野球となると豪打、好守、そして好リードと強肩。浪商に入学してすぐにレギュラーとなり、持ち前の打棒を見せつけた香川さんも身長1メートル72、体重92キロ、ウエスト95センチ、ヒップ1メートル。丸っこい巨体は、いったん打席に入るときびきびと、そして豪快に躍動する。太鼓腹につかえそうな内角球にも、バットをたくみにコントロールする器用さが、またよかった。ユニフォームのズボンがずり落ちないように、しきりにたくし上げながら豪打の連発。愛きょうたっぷりの明るいキャラクターと、ごていねいにも捕手というポジションまでが同じ。いつしか“ドカベン”と呼ばれるようになった。

中学時代、牛島との運命的な出会い

かといって、決して人気先行じゃない。浪商時代は78年春、79年春夏と、つごう3回甲子園に出場し、11試合で打率4割4分4厘、12打点。なによりすごいのは79年夏、史上初めて記録した3試合連続ホームランだ。これを含めた甲子園通算5本は、のちに清原和博(PL学園・のち西武など)に破られるまで、最多記録だった。力士体型のドカベンが、漫画の世界のようなストーリーを実現することで、甲子園には連日、5万を越す観客が詰めかけた。だけどねぇ……と香川さんは振り返ったものだ。

「中学でも、高校に入ってからも、先輩や仲間から“ドカベン”と呼ばれたことはないんですよ。いつからそういわれたのか、はっきりしない。どこかの新聞記事に出たんが最初のようです。だけど僕は漫画を読まないから、“ドカベン”といわれてもなんのことかわからなかった。そのうちに人から教えてもらったり、テレビで放送されたアニメを見たりして、ああなるほどな、そうなんだ……とわかり始めたんです」

高校時代はつねに、牛島・香川と並び称された。ハンサムな牛島と、愛嬌のあるドカベンというバッテリーは、まことに絵になったのである。ただこの名コンビは、ひょっとしたら生まれていないかもしれなかった。大体大附属中学時代、大東市の四条中と対戦したときのこと。

「準々決勝くらいでしたか、延長13回で僕らが3対2で勝ちはしたけど、17個くらい三振を取られました。そのあと中学の先生から“あの四条中のエースは浪商に行くことになっている。オマエもそうしろ”といわれて。浪商でバッテリーを組め、ということですわ。ただ浪商には、行きたくなかったんです。中学と同じ敷地にあって、練習をわきで見ていて“しんどそうやな”と思いましたから」

同じ大阪体育大の附属校。香川さんが附属中学から浪商高校に進むのは、きわめて自然な流れのように思えるが、実は香川さんはこのとき、天理高校のセレクションを受けて合格していた。あとは願書を提出するだけ。だが一転、浪商へ。決まりかけていた香川さんの天理進学をあきらめさせたのが、四条中のエース。それが、牛島だったというわけだ。

甲子園初お目見えは、2年になる78年の春だ。前年の秋、1年生ながら近畿大会の一発を含むつごう6ホーマーを放ち、名門の四番としてセンバツに乗り込むと、大会前の甲子園練習でレフト中段にどでかい一発をぶち込んだ。対戦相手の高松商は、これを見ておそれをなし、本番では香川さんを徹底マーク。初打席に内野安打1本を放ったが、以後は2敬遠など勝負を避けられ、チームも敗れた。

甲子園史上初の3試合連続HR

ドカベンの名が全国に知れわたったのは、連続出場した翌79年春だ。愛知との初戦、バックスクリーンへ特大弾を放つと、準決勝の東洋大姫路戦も一発を記録。決勝では、打撃戦のすえに箕島に惜敗したものの、浪商は準優勝を飾っている。さらに、チームにとって18年ぶり出場だったその夏。2回戦(倉敷商)、3回戦(広島商)、準々決勝(比叡山)と史上初の3試合連続ホームランを放ち、春に打った2本を加えて通算5本と、史上最多記録(それまでの記録4本は1925年第一神港・山下実、のち阪急)を塗り替えることになるわけだ。

香川さんが打の柱だとしたら、投の柱はむろん、牛島。センバツでは、延長13回を含めた全5試合を一人で投げ抜き、夏の大阪府大会でも、52回3分の2を投げて、失点はPL学園との決勝の3点だけだ。なによりも与えた四球わずか1と、屈指の本格派ながら、当時から制球力が安定していた。だがこれはちょっと意外なことに、1年からバッテリーを組む香川さんにとって、つねに牛島・香川と並び称されるのがおもしろくなかった、という。

「慣習だからしょうがないとしても、いっつもピッチャーが先で牛島・香川。香川・牛島とはいわれないんですね。背番号も1番2番で、ドラフトされたときも向こうが1位、こっちは2位(笑)。お互い一番になりたいですから、これはすべてに張り合いますよ。だから僕は、試合以外では牛島のタマは受けなかった。ブルペンでは、別のヤツが受けるわけです。ただ試合になったら、勝ちたいという意識が強いから、牛島も僕のサインに首を振ったことはないですね。プロを引退してから、ラジオの番組でアイツと電話で話したことがあるんです。“オマエがいなかったら、浪商に行ってなかったかもしらんし、いまのオレはなかったやろ……”。アイツも、同じことをいいました。野球をやっているときはいいライバルでしたけど、ああ、コイツが一番の球友やったんやなと思いましたね」

甲子園で打った5本のホームランは、すべて鮮明に記憶していた。

「とくに1本目、センバツの愛知戦。前の年と同じように、甲子園練習でホームランを打ったから、またマークがきつくなると思っていたんです。そこで外角低めのむずかしいタマを、うまく打てた。それと、5本目。比叡山戦なんですが、前の回の守りでファウルチップを右肩に受けてね。救護室で応急処置を受けたら、ほとんどドクターストップみたいな状態やった。それでも、3試合連続ホームランがかかっていたから、そのまま出続けた。次の攻撃の先頭打者が僕です。ただ、素振りをしたら、右肩がものすごく痛いんですよ。“あかん、一振りや。一振りにかけよう”と。初球、高めのストレートでした。レフトのラッキーゾーンに入ったんですが、ベースを回るのにも右腕がしびれて、ほとんど振れませんでしたね。そのあとすぐに、ベンチに引っ込みました。

あれだけ打てたのはやっぱり、1打席に集中していたからやろうね。プロゴルファーは、だれかが動いたとかシャッター音がしたとか、いろいろ気にしますけど、そんなんは自分の失敗を人のせいにしてるとしか思えません。高校時代は5万の観客がいて、プロになったら5000人くらいのお客さんしかいませんでしたが、オレら打席に入ったら、ピッチャーしか見えへんよ。応援の音も聞こえない。猫がグラウンドを横切っても見えへん。お客さんが100万人だろうが、500人だろうが、関係なかったですね」

いただいた名刺には、水島氏の描く本人の似顔絵がほほえみ、Vサインを出すとともに、“ドカベン”と刷り込まれている。合掌。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

楊順行の最近の記事