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今も残る「ワクチン以前の世界」 呼吸困難で救急搬送 オーバーステイ外国人のリアル 茨城県大洗

米元文秋ジャーナリスト
リリーさん夫婦と娘の影法師=リリーさん提供

 「先月、オーバーステイ(超過滞在)のインドネシア人女性が呼吸困難になって救急車で搬送された。コロナらしい」―。茨城県大洗町のインドネシア人コミュニティーを取材していて、こんな情報が耳に入った。居住先を訪ねた。そこには、新型コロナワクチンの接種が進んだ日本に残存する「ワクチン以前の世界」があった。

 オーバーステイの人々は、コロナ禍の日本で何を考え、どのように生きてきたのか。その素顔に迫る。大洗町が17日にこうした人々への集団接種を開始した背景にある現実が、浮かび上がる。

「あ、それ私」

 大通りから小道を少し入った所にある集合住宅。古びたドアをノックしてインドネシア語で声を掛けた。「こんにちは。どなたかいますか」

 「いるわよ」と女性の声。ドアが開いた。「記者ですけど、お話を聞かせてもらえますか」「いいですよ。座って」。くりくりした目のTシャツ姿の女性が微笑んだ。

 「この辺りでオーバーステイのインドネシア人がコロナにかかったって聞いたんですけど、ご存じですか」「あ、それ私です」

 玄関を入った所のリビングは土間のようになっている。筆者は靴のまま中に入り、椅子に座って、女性と向かい合った。女性はリリーさん(仮名、32)。「バリ島出身。ジンバランで携帯電話会社のカスタマーサービスをしていました」と自己紹介した。一族は西ヌサトゥンガラ州の別の島の出身、キリスト教徒だという。

ハネムーン→ハタケ

 「バリ島からなぜ大洗へ?」「ハネムーンです」

 「え?」「2018年12月に結婚、1週間後に夫(34)と共に成田空港に着きました。東京に滞在し、帰りの旅費はアルバイトで稼ぐことにしました。旅行をアレンジしてくれたジャカルタの人から、大洗に住む日系インドネシア人を紹介され、その日系人の指示で成田からバスに乗って水戸へ、そして鉄道で大洗に着きました」

 「(大洗町の隣にある)鉾田市の『ハタケ』でアルバイトをしました。ミズナ、コマツナ、ホウレンソウ。バイトはあったり、なかったり。数日間のこともあれば、2週間のことも」

 農業は植え付け、収穫、乾燥などで一時的に多くの人手を要することがある。「ハタケ」は大洗町に住むオーバーステイの人の主要な就労先となっており、インドネシア語の会話によく登場する日本語だ。時給は茨城県の最低賃金(現在879円)程度と言われている。

 「お金は思ったほど貯まらなかった。インドネシアだと50万ルピア(約4000円)でお米が50キロ買えますが、日本では10キロしか買えないのですから」。リリーさんの観光ビザは切れていたが、日本滞在は長引いていった。

出産費用50万円

 帰国の時期を探っていた19年の中ごろ、リリーさんは市販の判定薬で、自身の妊娠を知った。「妊娠8カ月以降は仕事ができなくなりました。当時、夫婦で貯めていたのは20万円。出産費用には50万円必要なので、30万円足りなかったです」

 日本人や正規滞在の外国人の場合、健康保険からの出産育児一時金などで、費用の大半がまかなえるが、オーバーステイで無保険者のリリーさんは全額自己負担となる。

 「お金がない。どうしよう」と漏らしたところ、友人が言いだした。「パチンコで稼いだらどう」

 「パチンコなんてやったことなかったのに、5000円持って水戸市内のパチンコ店に行きました。そして勝ちました。2日間で計20万円」。筆者が口を開けているのを見て、リリーさんは「本当よ。それでもまだ足りない10万円は、夫がアルバイトをいっぱいして稼いでくれました」と話した。

 19年の暮れ、水戸市内の病院で元気な女の子を出産した。

 「パチンコは長い目で見たら負ける」と筆者が言うと、「私はあれ以来、全然やっていません」と微笑んだ。

コロナで遠のく帰国

 「あーん」。インタビュー中、10~20分おきに隣の寝室から赤ちゃんの泣き声。リリーさんがあやしに行く。「すみません」と筆者。「いえいえ、大丈夫です」とリリーさん。

 「子供が6カ月になって飛行機に乗れるようになったら帰国しようと考えていました。でも、コロナが広がり、世界が変わってしまったのです」

 20年、インドネシアへの航空便は激減、運賃は高騰した。飛行機への搭乗や入国の際はPCR検査の陰性証明書の提示が義務づけられた。当時、証明書発行のためのPCR検査ができる施設は少なく、費用は高額だった。リリーさん一家の帰国の道は、また遠のいた。

 21年春、大洗町のインドネシア人コミュニティーでコロナのクラスターが発生した。町内のインドネシア人の約1割が感染したとみられている。その後、日系人や技能実習生などの正規滞在インドネシア人のワクチン接種が進んだが、住民登録をしていないオーバーステイの人々に接種券が届くことはなかった。

咳き込む友人、自身も急変

 9月のある日。ぜんそくの持病があるリリーさんは呼吸困難に陥った。「夜だったのですが、日本人の大家さんが救急車を呼んでくれました。うちにはオーバーステイの人も含め、友だちがよく来ます。前日もたくさん集まり、咳をしている人がいたのです」

 リリーさんは、搬送先の病院でPCR検査を受け、新型コロナ感染が確認され、集中治療室(ICU)に収容された。入院2日目にはコロナは陰性になったというが、入院は1週間に及んだ。いったん帰宅後、自身と夫、同居している日系インドネシア人夫婦が、保健所の判断で今度はホテル隔離となった。リリーさんによると、自分以外の大人3人もコロナ感染が確認されたという。隔離も約1週間続いた。

 病院でのコロナ医療は、日本人と同様に公費負担となったが、急患として搬送された際の初診料、医療管理費、検査、画像診断などが全額自己負担となり、リリーさんは友人に借金をして約3万3000円を支払った。

 「私はずっと働けていません。オーバーステイでは保育所に子供を預けられませんし、託児所だと料金がとても高いのです。夫のアルバイト収入は月に8万~10万円ですが、コロナの影響で仕事は減り気味。ここから親子の生活費や家賃、光熱費を支払わなければなりません。入院した際に断乳したので、ミルクも買わなければなりません。そして今回、私の入院や夫婦の隔離で、夫が働けない日が続きました」

本当の夢

 「子供の出生届とパスポート発行のため、東京のインドネシア大使館へ行き来する費用や、旅費に充てるお金が貯まれば、帰国するつもりです。資金を貯めてインドネシアで店でも開ければと考えています」

 「でも本当のことを言えば、娘に日本の教育を受けさせるのが夢なんです。育児をしながら、スマホのユーチューブで日本の学校のことを見ています。みんなで自分の教室の掃除をするなんてすばらしい」。娘には、日本の有名な女性と同じ名前をつけた。

 大洗町が始めたオーバーステイのインドネシア人へのワクチン集団接種に、リリーさんの心は揺れる。「帰国の際も、接種証明書が必要になりますね」

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ジャーナリスト

インドネシアや日本を徘徊する記者。共同通信のベオグラード、ジャカルタ、シンガポールの各特派員として、旧ユーゴスラビアやアルバニア、インドネシア、シンガポール、マレーシアなどを担当。こだわってきたテーマは民族・宗教問題。コソボやアチェの独立紛争など、衝突の現場を歩いてきた。アジア取材に集中すべく独立。あと20数年でGDPが日本を抜き去るとも予想される近未来大国インドネシアを軸に、東南アジア島嶼部の国々をウォッチする。日本人の視野から外れがちな「もう一つのアジア」のざわめきを伝えたい。

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