なぜ沖縄の成人式は“ド派手”になったのか?
新年を迎え、間近に迫る祝い事は成人式。筆者は2003年、地元・那覇市の成人式に出席するはずだったが、前年の式典で逮捕者が出たため市主催の式典が中止になるという苦い思い出がある。結局、近くのホテルで中学の同級生だけで鏡開きをして、祝杯をあげたのだが、この事件は、いわゆる「沖縄の成人式」として全国ニュースでも話題になっていく。那覇市の国際通りをカラフルな袴で威圧的に練り歩く映像を見た人は少なくないはずだ。沖縄の成人式はいつごろから、なぜ“ド派手”になっていったのか。沖縄タイムスの紙面を振り返りながら、背景を探った。
1954年「セーラー服」~1965年「振り袖」
戦後、初めて成人式が紙面に登場したのは1954年1月17日。当時は「成人祭」と記されている。
「セーラー服もあれば背広姿もあるといった調子で“はたち”の群像は正に多彩のハツラツである」
約800人の参加者は那覇市長の話に聞き入り、成人代表は「一層努力して今日の栄光をはずかしめないことを誓います」とあいさつしている。
当時は市主催の式典だけではなく、働きながら学校に通う定時制高校、戦争遺児の会、集団就職先などでも式典が行われていた。
終戦から20年がたった1965年。那覇市の式典の記事は「ふり袖や背広、学生服、ジャンパー姿などいろとりどりの服装で出席」と伝えている。時を同じくして、「背広」や「ネックレス」など成人式に向けたデパートの広告が掲載されるようになり、1969年には女性はほとんどが振り袖姿、男性もほぼスーツ姿になった。
平成に入ってはかまが目立ち始める
平成になった1989年、那覇市の隣、浦添市の成人式の記事に「目立つ男性の羽織はかま姿」の見出しが躍った。それまで、はかま姿の記述はちらほら。バブル世代で、学校卒業後の生き方にも生活にも変化が生まれたのもこの時期だ。1988年に「フリーター」という言葉が登場し、進学も就職もせず型にはまらないポジティブな言葉として受け止められていた。大人社会に順応するのではなく自分らしさを求めるのがかっこいいとされた時代だった。
3年後の1992年には、同じ浦添市で「目立ちたがり屋」の見出しで派手なはかま姿の成人が紙面に登場した。
「ただひたすら目立ちたい」という理由で、貸衣装店から勇気を出して6万円で借りたという男性は「満足。十分目立った」とコメント。
写真の印象としては非常にかわいらしく、派手派手しい感じはない。「ただ目立ちたい」という同じ理由で、沖縄市ではなぜか闘牛を2万円でレンタルして会場に来た成人もいた。
“ド派手“成人式は那覇の合同式が影響か
1992年、那覇市が4カ所(首里・那覇・真和志・小禄)に分けていた式の一括開催を始めた。このころから、那覇市では成人が鏡開き用の酒だるを会場周辺に持ち込んだり、一気飲みを始めたりなど、出身中ごとにパフォーマンスを競うようになった。中学校の後輩が泊まり込みで場所取りをし、酒の購入費を後輩にカンパさせる学校もあった。紙面に問題視する論調は見当たらず、“恒例行事”として続いていったと推測される。
鏡開きに関しては、1989年に那覇市の中学校の体育館で開かれた懇親会で市長が新成人に酒を振る舞っている記事からも、慣例化していたことが確認できる。
ド派手成人式を新聞が初めて取り上げたのは2000年。「自分たち流成人式」の見出しで、「成人式には参加せず、会場の外で記念撮影や鏡開きをして祝う」と書いた。大型バスやリムジンをレンタルし、中学別に緑や白、ピンクのおそろいの貸衣装で式場に入る様子を紹介している。成人の日は、同窓生で盛り上がる場へと変わった。
2001年、式典会場だった那覇市民体育館の門が壊され、式典開催の是非が議論されるようになる。この年は沖縄だけでなく、全国的にも「荒れる成人式」が問題になった。
2002年、那覇市教育委員会が混乱を想定し、機動隊170人を動員。会場への酒の持ち込みをめぐって会場は大混乱となり、7人が逮捕された。
結果、2003年、私が成人を迎えたこの年に那覇市が主催する成人式はなくなり、学校の自主性に任せられることになった。母校の中学校の体育館で創作ダンスや校歌斉唱したり、ギター演奏をして成人を祝った学校もあった。
国際通りで出身中学校の旗を掲げながら練り歩いたり、歩道で鏡開きをしたり、シートベルトをせずに車を運転したりして、検挙された事案が新聞に初めて掲載された。地元から、より目立つ場所へと移動する流れが生まれ、成人式の日に国際通りを派手な服装で練り歩く行為が現在まで続いている。
派手な成人式を迎えるために
建設現場で働いていた浦添市の男性(24)は、成人式に向けて17歳の時から、仲間15人と毎月1万円ずつを積み立てたという。街をパレードするために車を4台用意。1台は購入し、残り3台はレンタカー。先輩も借りていた貸衣装の店ではかまを借りた。
「18歳のころから先輩の成人式の手伝いをしている。派手な成人式をするのはしきたりだと思う」と説明する。
地元の学校周辺を出発し、行政が主催する会場に向かった。もちろん鏡開きもやった。
「成人式は一つの区切り。20歳を超えて騒ぐのは恥ずかしいから、この日が最後。だから派手にやる」と振り返った。
大人たちがまゆをひそめる行動がクローズアップされた一方、2013年には、「新成人のイメージを良くしたい」と、派手なはかま姿で、周りの成人たちがまいた紙吹雪などを掃除する若者も登場し、ただ騒ぐ成人式の形から、徐々に変わろうとしている動きもある。
「派手」の背景にあるもの
成人式を派手にやる若者たちは、「地元意識」でつながる関係性に特徴がある。地元の定義はさまざまだが、沖縄でいう「地元」は、高校よりも中学でのつながりを指す。幼い頃から時間を共有し、同じたまり場でたむろし、自分の居場所を見つける。その過程で、アイデンティティを形成し、地元への誇りを持っていく。
沖縄には「他島(たしま)狩り」という独特の風習があるが、これは、自分の地元に他の地域から入ってきたヤンキーを排除することを指す。逆に見ると、それほど彼らは地元に愛着を持っている。中学校単位でド派手さを競うのは、コミュニティーの強さも絡み、おそろいのはかまは、自分たちの所属している地元の“象徴“であり、その地元から外れないためのツールでもある。
もう一つは「見る-見られる」という関係性だ。派手な成人式を報道するメディアは、彼らの行動を否定的に報道し問題提起する一方で、彼らの目立ちたい欲求もかなえる。那覇市が4カ所で成人式を開いていた時は、4つの場所で彼らの欲求をある程度満たしていたものが、合同開催になったことでそれぞれの地元の“力”を大いにアピールすることができるようになった。さらにメディアの報道が助長した。
京都女子大学教授の成実弘至さんは、「知の教科書 カルチュラル・スタディーズ」(2001年、講談社)の中で、若者の非行や逸脱についてこう記している。「若者たちにとって社会的監視はレッテルをはられ管理されるという否定的な面からだけでなく、『見られる』『目立つ』快楽をとおして主体性を確立するという肯定的な面があることを忘れてはならない」
学校と就労世界にも要因
沖縄のヤンキー文化に詳しい研究者の打越正行さんは、学校と中学卒業後の就労世界における時間的見通しの違いにも派手な成人式を読み解く鍵があると説明する。
「学校という場所は、通過儀礼や時を刻みながら思い出を積み重ねる仕掛けがたくさんある。例えば、進級、卒業式、数々の行事とその振り返りは、そこでの成長の軌跡を刻む装置として機能している」
「一方で、学校にほとんど行かず、中卒後に建築現場などで働く若者らは、10代のころは下積み期間で能力的な成長も実感できず、給料もほぼ最低賃金のまま。つまり学校と対照的に通過儀礼などを通じて時を刻む(成長を実感できる)機会がほとんどありません。祝日も長期休暇もなく、そして旧盆などの年中行事もハレの時間として経験しておらず、あるのは1週間を淡々と積み重ねる日常です。これが15から少なくとも30歳を超えるまで続くわけです。そんな彼らが、中学卒業して5年後に後輩たちの応援もあり、国際通りなどに集って時を刻む場が成人式になっている」
成人式のあり方が疑問視され始めた2000年前後に成人した若者が中学を卒業したのが1995年前後。高校入試で毎年、2千人前後の不合格者がいた。失敗すれば、浪人するか、中卒のまま社会に出るしかなかった。1998年ごろには受験者の二次募集が始まり、不合格者は約300人にまで減ったが、その”時”を刻むことをできなかった若者たちが成人式を“ド派手“に飾るのかもしれない。
この記事で、彼らの迷惑をかける行為を支持したり、助長しようと思ったりしているわけではない。沖縄の成人式を「荒れている」「ド派手」という言葉で片付け、レッテルを貼る“思考停止”の状態で見るのではなく、彼らの背景にあるものを知り、社会のまなざしを変えていくことが、成人を迎える彼らへの応援になると考えている。
2003年、私が成人を迎え、地元の同級生と夜遅くまで飲んだ時、派手な服装の元ヤンキーが私にこう言った。
「俺は日雇いで建設現場で働いている。だから今日どんなに飲んでも明日は午前5時に現場に向かって仕事をしないと食べていけない。今日は成人式に出られて、中学を卒業してやっと認められた気がした。お互い、頑張ろうな」。
怠惰な大学生活を送っていた私にとって、頭をたたかれたような衝撃で、身が引き締る思いだった。
成人式は彼らにとっての区切りの通過儀礼であり、騒ぎに騒いだ翌日はまた同じ日常が始まる。
成人を迎える皆さん、おめでとうございます。
いい人生を。