グローバルな教養とは「本当は」なにか

『COURRiER Japon』(クーリエ・ジャポン)2013年6月号(4月25日発売)の特集「世界に通用する「教養」を身につけよう」に掲載された、インタビュー記事の再掲です。「グローバル人材」の育成が強調され、大学の授業にただ外国語/外国人教員を取り入れさえすればよいかのような風潮に対して、一石を投じようとしたものでした。

「自国の歴史」を語れなければ、グローバルな教養人とはいえない

最近、「教育のグローバル化」、「グローバル人材の育成」といったかけ声を、いたるところで耳にするようになりました。京都大学などは一般教養の授業の半分を、英語で行う方針を決めたそうです。

しかし、そのような“グローバル化一直線”の時代に、本当に必要な教養とはなんでしょうか。

文化人類学に、「ハイコンテクスト/ローコンテクスト」という社会の二分法があります。ハイコンテクストな社会とは、多くのコンテクスト(文脈)を共有する人びとが集まっている状態です。成員の間で文化的な慣習や、価値観があらかじめ共有されているため、いちいち言葉で説明などしなくても、“空気”を読めば“ツーカー”で話が通じる社会ですね。

一方、ローコンテクストな社会では文脈の共有度が低いため、あらゆる前提を言語化して論理的に説明しないと、話が通じません。

実は、グローバル化とはハイコンテクストな社会が、ローコンテクストな社会に転換していく過程の一環なのです。国内でさえ、世代や趣味が違うと「話が通じない」関係が増えていますね。そこに、外国から様々な価値観を持った人々が参入してくるわけです。

イマドキの若者であれ、海外出身者であれ、職場や教室にコンテクストを共有していない人が現れると、“空気読め”では通じない。そのとき必要となるのが「教養」です。この教養とは、単なる知識や語学力ではなく、「ハイコンテクストなものをローコンテクストに翻訳する能力」のことです。

例えば、「アジアで日本だけが自力で近代化できた」というコンテクストをみんなが共有していた時代なら、外国人相手でも日本史の話題で盛り上がるのは容易でした。しかし近年、ハーバード大学で日本史を講義した北川智子氏は、着物で教壇に立ったり、BGMを流したり、学生の関心を惹くために大変な苦労をしたという。日本には学ぶべきものがある、という“空気”が消滅したからです。

日本人は学校でも企業でも、ハイコンテクストな価値観や通念をローコンテクストに変換する能力を、あまり養ってこなかった。そこを改めずに、英語で教えるコマさえ増やせばグローバル人材が育つという発想では、「英語を話す無教養人」を量産するだけです。

江戸から続いた“暗黙知”の限界

日本が世界にも稀なハイコンテクスト社会になったのは、江戸時代の影響が大きいと思います。地形や気候が多様なために、農作業一つ取っても村ごとにノウハウが異なり、全国共通のマニュアルを作りにくい。だから言葉で教えるよりも、現場の作業を通じて体得する“暗黙知”に依存する部分が大きくて、それを伝承するために家制度という長期雇用ができた。

この特性は、現代の企業社会にも受けつがれました。「日本のものづくりの強みは、口では説明できない細かいすりあわせにある」といった“神話”が典型です。しかしグローバルな競争ではむしろ、マニュアルに従って操作すれば世界の誰もが使える、ローコンテクストな技術(モジュール化)で勝負しないといけない。ローカルな“空気”に縛られる日本式のやり方が、通用しなくなったのです。

グローバル化が進行したローコンテクスト社会では、基本的に人材は交換可能です。雇用する側は、マニュアル通りに働ける能力があれば、より安い人材を求める。日本人が大切にしてきた、長いつきあいゆえに生まれる「以心伝心」の関係、「あうん」の呼吸に価値がなくなった。これが、ハイコンテクストな日本企業で活躍してきた人が、グローバル人材市場では簡単に使い捨てられる「コモディティ」になってしまう理由です。

グローバル化はハイコンテクストな社会が崩れていくという意味で、本質的に「せつない経験」です。渡辺京二氏の『逝きし世の面影』に幕末の日本人の姿が描かれていますが、当時は「外国人は日本語を理解できない」ということ自体に気づけない日本人さえいて、平気で日本語で話しかける。一種の「井の中の蛙」状態だったのですが、そのような日本人が外国人から見ると、非常に幸せそうに映ったのも事実です。

言葉がなくてもわかりあえるハイコンテクストな社会は、ローコンテクストな社会から見ても「居心地のよいもの」なのかもしれません。グローバル化と共に失うものを見つめ直すためにも、いま日本史に学ぶことは有意義だと思います。(談)

昨年末の衆院選の最中に「アジアで英語をしゃべれないのは日本人だけ」「頭に来たので大阪市は小学校1年生から英語教育をやる」と英語学習によるグローバル人材の育成を強調した橋下徹氏(大阪市長)はいま、従軍慰安婦をめぐる発言から国際社会の批判を浴びています。ご本人は一時「英語力のなさから誤解を生じさせた」とも述べていましたが、はたして問題の所在を正しく理解されているのでしょうか。日本国内というハイコンテクストな風土で培われた感覚のまま、グローバル社会という究極のローコンテクスト状況にむけて発信してしまうことの危うさは、単に英語の授業さえ増やせば克服できるものなのでしょうか。いまこそ、真に現代世界で求められる「教養」のあり方について、考えなおしたいものだと思います。