グローバル化の時代における尖閣諸島の「国益」への違和感

アジア随一の国際都市となった上海

尖閣諸島の問題が反日デモへとなり、そしてデモという言葉の定義から逸脱した集団暴力テロ行為へ繋がり、そして現在は政治の場へとその戦いの舞台が移されていたこの一連の騒動。

僕自身は、実際に中国に住んでいた経験があるので、一般的な日本人とは少し違っていて、よりリアルな中国人の一面を知っています。(それでも一部分ではありますが)

なんと言いますか、「中国人」というひと括りにした集団のイメージではなく、「自分の知人・友人」としての1人の中国人の複数形という意味での中国人をイメージしてしまいます。

あの暴徒化した中国人の中には、僕のイメージの中にいる中国人はいませんでした。

多くの日本の店舗が入っている上海のショッピングセンター
多くの日本の店舗が入っている上海のショッピングセンター

■この問題で日本企業の「チャイナ・プラスワン」は加速

僕の場合、中国の雰囲気やその経済成長スピードなどのワクワク感が直感的に気に入って、自らその地に渡り住み着いたわけで、周りの日本人のみんなにどんなに「やれ、中国はああだ、こうだ」と言われたところで自分の中国好きは変わりませんでした。「いや、実際はこんなに面白くて、中国人だってこんなにいいところがあって・・・」という反論的な事を思ったり口に出したりしたことも多々ありましたが。

ですので、今回のデモと言うのは本当に心苦しい思いでいっぱいです。

「あれがすべての中国人の姿ではない」というのは、マスメディアでも多く語られてますが、そうはいっても、個人レベルでの日中友好的な雰囲気は一気に崩れましたし、経済・ビジネスの世界でも日中関係は相当冷え込むことになるでしょう。

ここでは主題と違うので多くは語りませんが、今後日本企業そして他の外資系の多くも、いわゆる「チャイナ・プラスワン」を本気で考え、その速度を高めていくトレンドが進むものと思われます。

特に工場系については賃金の上昇という事情も加わり、政治・治安的なリスクがなかったとしてもすでにその動きは加速しています。

まだ内需があるとはいえ、外資系の工場撤退が進めば、地方などのブルーカラー層の労働は奪われ、さらに治安リスクは高まっていくと思います。

■一個人にとって尖閣諸島が持つ意味合いは?

さて、ここで本題に戻したいわけですが、前述したような「典型的な中国人像を大括りにした中国人」と「自分の知人・友人の集合体の中国人」というところに僕としても1つの気づきがありました。

「尖閣諸島(魚釣島)は誰のもの?」というのがこの一連の騒動の一大テーマだと思うのですが、僕からしてみると日本のものでも中国のものでもどちらでもいいかなぁ、というのがぶっちゃけた本音です。

そりゃ、いままで日本のものだと思っていたものが急に中国に横取りされるみたいなニュースが流れれば、僕もひとりの日本人ですから、「え、そりゃないんじゃない」と思いますが、正直、不勉強で申し訳ないのですが、客観的に見て日本が正統的に権利を持っているかどうかなんていうのは良く分かりません。(多くの日本人・中国人も同様でしょう)

経済的排他水域等の関係性もあり、この島の領有権が「国益」にとって大きく影響するのも知っています。これも多くの人たちが知っているでしょう。地下資源の存在もしかりです。

この「国益」が今回の騒動のポイントです。

僕自身(≒ひとりの個人)にとっては「国益」なんていうのははっきり言ってどうでもいい話です。これは一個人の意見にしか過ぎませんので、反対意見のある方も多くいらっしゃるでしょう。

尖閣領有権に関連する地下資源の経済的ボリュームが国民1人に与える影響がどの程度か算出したわけではありませんので仮定にしか過ぎませんが、おそらく尖閣が中国に渡ったとしても僕の生活、家族の生活に大きな影響はないと思っています。

その経済的な影響力については僕だろうが他の日本人だろうが、ましてや一般の中国人にとっても同じだと思うんですね。

※もちろん特定の関連企業の株式を持っているなどという場合は除きます。

でも、一方で中国では「魚釣島(尖閣諸島)は中国のものだ!!」とあれほどのデモをやるわけです。日本だって、マスメディアをあげて反対して、「やれ、中国人は・・・」と応酬するわけです。

この一大合戦で僕は何だか違和感を持ってしまったんです。

その「国」という括りってどんな意味があるんだろう?、と。

■皆さんの幸せの範囲ってどう考えてますか?

たくさんの人たちにはそれぞれの価値観があるかとは思いますが、おそらく多くに人にとって、自分の幸せ(≒子どもや配偶者などの家族の幸せ)があり、家族の幸せがあり、友人・知人の幸せがあり・・・という形で自分との距離が近しい人の幸せを願う気持ちがあるのではないでしょうか?

そこからすると、例えば東京都目黒区在住の人であれば、その次に町内、目黒区、東京都くらいの順番で帰属意識が高まっていくのでしょうか。

はたまた、所属しているクラブや会社などの単位でしょうか。

その上にくるのが「日本」という枠組みです。

さらに上にあるのがアジアとか地球とかなってくるでしょう。

■国民国家という枠組み・考え方の耐用年数が過ぎている

そこにおける「日本」、つまり「国家」という単位がどうにもしっくりこないんですよね。

どうしてそこまで国家という単位にこだわってしまうんでしょうか。

血眼をあげて、戦わなければいけないほどの枠組みなんでしょうか。

高校野球の応援だって地元の高校が出てれば、あまり意味もなく肩入れしたり応援したりします。サッカー日本代表が活躍してアジアや世界の強豪をが打ち負かせば爽快な気持ちになります。でもその程度のものでいいんじゃないでしょうか?

いままでは国境が明確にあり、その内外への移動が困難であったために一つの帰属意識が強くあったかと思うのですが、もはやその枠組みは意味が薄くなってきています。

僕が主宰している開国ジャパンプロジェクトのサイトの中でも野村隆アンバサダーが「国民国家という枠組み・考え方の耐用年数が過ぎている」と表現しています。

これがまさに僕が肌で感じている感覚です。

いまやグローバリゼーションが加速し、国家という枠組みでは語れない時代になってきている中での逆行した感情であり、行動のように思えてなりません。

日本だって150年前の明治維新の前は、薩摩藩と長州藩は仲たがいしていましたし、藩をまたいで移動することは一般市民には制限がされていました。

いまでも鹿児島県と山口県はいがみあってるのでしょうか?

時代は変遷すると思っています。

■これからの時代は個人

これからの時代、グローバリゼーションと関係ない世界でも「個人」という力が大きく注目を浴びてきます。もちろん「集団」の影響力も根強く残ると思いますが、その相対的な力は下がってくるでしょう。

そしてそこに国境・国籍を意識しない時代がやってきます。

より個人が強くなってくるんです。個人の結びつき、とも言えるかもしれません。

情報通信技術の進歩などにより、場所という物理的な制約も少なくなってくるでしょう。

その時に「国家」という単位は今後の僕たちの生活においてどんな意味を持ってくるのでしょうか。

そんな時代に突入しつつあるのが今現在だと思っています。

それでもあなたは叫びつづけますか? 「尖閣は日本のものだ」と。

上海浦東空港にある日系コンビニエンスストア
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