【川上哲治と落合博満の超打撃論その2】「せっかく獲ったのだから使え」という球団代表の命令から三冠王へ

1989年8月21日の巨人戦で、逆転サヨナラ3ラン本塁打を放った落合博満。

 落合博満が強くこだわった三冠王とは、ヒットの確率が最も高く(首位打者)、チャンスに最も強く(打点王)、たったひとりで最も多くの得点をもぎ取る(本塁打王)、まさにパーフェクトな打者の証と言っていい。この三冠王を3度にわたって獲得したことで、落合は伝説を作り上げた。

 ところが、落合本人の口からは、打撃について「極めた」という類の言葉は一切聞かれない。むしろ頻繁に発するのは「難しくて答えが出ない」とか「極めることはできない」といった表現だ。そんな落合は、20年間のバットマン人生において、何を体験してきたのだろうか。

 落合は、1979年にドラフト3位でロッテ(現・千葉ロッテ)へ入団する。東芝府中で主軸を担い、日本代表入りして国際大会も経験するなど、即戦力の呼び声が高かったものの、ルーキーイヤーはさしたる成績も収めることができなかった。山内一弘監督の指導を理解できずに拒絶したことで、指揮官の戦力構想から外れていたためである。

 2年目もオープン戦中のケガが原因で出遅れたが、業を煮やした当時の球団代表(と言っても親会社からの出向組ではなく、監督経験者の西垣徳雄である)が「せっかく獲った選手なのだから使え」という異例の指令。これで一軍に昇格すると、57試合で15本塁打を放つなど、このワンチャンスを見事に生かして大打者への道を歩み始める。

「代表命令でチャンスをつかんだ選手というのも、なかなかいないでしょう(笑)。山内さんの教えは難し過ぎて理解できなかったけど、本当は理に適った素晴らしいもの。要は、私のレベルがそこまで達していなかっただけ。けれど、見放されたおかげで、自分の打撃を思い通りに作り上げることができた。そうでなければ、アッパー気味のスイングが認められることもなかったと思う。それで、ある程度の結果を残すことができたので、何とかクビがつながった。

 初めての首位打者を獲った3年目(1981年)だって、セカンドのレギュラーを渡すものかと必死にやっていたら、最終的に打率のトップにいた、というのが真相。まだ技術的な裏づけなんてない。もし満足な結果を残していなければ、スイッチヒッターにトライするという選択肢もあったくらいだから。ある医師に言われたんだけど、私の骨格は背骨を中心に全体的に少し右に傾いている。それで右肩が下がるから、右打ちだと自然に下からバットが出てしまう。反対に、左打ちならしっかり上から叩けるだろうというのが根拠。振り返ると、この頃の私にはある種の勢いがあったと感じている。まさか、首位打者の次が三冠王とは夢にも思わなかったけどね(笑)」

3度の三冠王を手にして“野球学者”になる

 レギュラーになって僅か2年目の1982年、28歳だった落合は主に三番に座り、打率.325、32本塁打、99打点で史上4人目、最年少での三冠王に輝く。この偉業は、1938年秋に獲得した伝説の大打者・中島治康、1965年の野村克也、1973、74年と続けた王 貞治と、一流を極めた打者だけがようやく辿り着ける場所と位置づけられていた。そんな“聖地”に、タイトルもひとつしか獲得していない、それどころか一軍選手としてスタートしたばかりの男が足を踏み入れてしまった。プロ野球界には、唖然とした空気が立ち込めたという。

「チームメイトや周りの人たちは祝福してくれたけど、『こんなに数字が低い三冠王は価値がない』と言う野球評論家がいたのには驚いた。野村さんや王さんに言われるならわかるけど、獲ったことのない人間に批判する権利などあるかと感じた。それと同時に、打撃について、あるいは野球に関してもっと深く考えていかなければならないと決意した。はっきり言えば、最初の三冠王を獲れた理由は勢いと運。でも、2度目、3度目というのは、自信を持って狙いにいかなければ獲れない。そして、3度の三冠王を手にした頃には、寝ても覚めても野球のことを考えるようになっていた」

 途轍もない偉業を成し遂げて、落合は“野球学者”に変身する。

(写真=K.D. Archive)

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