イチローの日米通算4367安打のベストワンは奇跡の一打だ

3月21日に現役引退を発表したイチロー。日米通算4367安打のベストはどれか。(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 2019年3月21日は、野球ファンにとって忘れられない日になるだろう。シアトル・マリナーズの一員として、メジャー19年目の開幕を日本で迎えたイチローが、スタメン出場した第2戦を終えると現役引退の記者会見を行なった。約1時間25分、どんな質問にも丁寧に答えたイチローに一番聞きたかったのは、日米通算4367(日本1278、アメリカ3089)安打のうちベストヒットはどれか。ベストワンを決めるのは無粋だとイチローには叱られそうだが、僭越ながらオリックス時代の2000年5月13日に放ったライト前ヒットとさせていただく。

 グリーンスタジアム神戸(現・ほっともっとフィールド神戸)で行なわれた千葉ロッテ10回戦に四番ライトでスタメン出場したイチローは、1回裏二死一塁の場面で打席に入ると、千葉ロッテの先発・後藤利幸がカウント1ボール2ストライクから投じたフォークボールをライト前に弾き返した。

ヒットメーカー・新井宏昌が予言した神業

 実はこの日は、球場からほど近いオリックスの合宿所・青濤館で、二軍監督の新井宏昌(現・福岡ソフトバンク二軍打撃コーチ)にインタビューをしていた。その数か月前に、「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治にインタビューした際、「日本でバッティングを極めたと言える打者は6人いる」という興味深い話を聞いた。その6人とは、川上自身をはじめ、長嶋茂雄、王 貞治、張本 勲、落合博満、そして、新井。川上はバッティングを極めた体験を「ボールが止まって見えた」と表現したが、新井にもそうした体験はあるのか尋ねた。

 川上に名前を挙げられたことに恐縮しながら、新井はこう語った。

「首位打者を獲った1987年には、外角の投球を捕手が『見送った』とミットを出したら、捕球する寸前に私のバットが出てきて払ってしまうという打席が何度もありました」

 さらに、川上が7人目になるのは間違いなくイチローだと言っていたことを伝えると、大きく頷いた新井は、こう語った。

「イチローがバッティングを極めたと感じるのは、ワンバウンドのボールでもヒットにした時じゃないですか。ワンバウンドするようなボールに手を出すのは一流じゃない。けれど、イチローの技術や瞬発力なら、ワンバウンドするボールも狙えばヒットにできるでしょう」

 その直後だった。インタビューを行なっていた応接室のテレビに新井が目を向けると、イチローがワンバウンドした後藤のフォークボールをライト前に運んだのだ。テレビ画面を通していたとはいえ、それは奇跡と言っていいシーンだった。

「もう現実になっちゃったね」

 一塁ベースに立ったイチローは苦笑していた。さすがに狙ったわけではない。それでも、新井は笑うしかなかった。

 後藤と橋本 将のバッテリーの攻め方は完璧だった。「バットが届く範囲ならヒットになる可能性がある」と考えていた後藤は、あえてワンバウンドを狙って投げ込む。それを承知していた橋本は、ボールの落ち際でイチローが「あっ」と慌てたのを耳にした。だが、泳がされながらもイチローは右腕だけでワンバウンドしたボールをバットの芯に当て、打球はライト前で大きく弾む。試合後、後藤と橋本は「あのボールを打たれたら仕方がない」と口を揃えたが、イチローの1168本目の安打は、まさに身体に染み込んだ極上の技術と身体能力によるものだと感じさせられた。

 翌2001年、イチローは27歳で海を渡る。そして、この時に匹敵する驚くべきシーンをいくつも私たちに見せてくれた。好球必打が一流打者の条件とされていた日本の野球界で、イチローはヒットにできると思えばボール球でも打ちにいった。その技術を簡単に言葉にするのは難しく、落合でさえ「私たちは昭和のバッティング、イチローは平成のバッティング」と表現した。その平成も間もなく終わる。新たな時代に、イチローのように観る者の心を揺さぶる打者は現れるだろうか。