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フェアリージャパン 17年率いた山崎浩子氏が明かす東京での「失敗」とパリへの「財産」

矢内由美子サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター
17年間務めた新体操強化本部長職を退任した山崎浩子氏(撮影:藤田孝夫)

 2004年、アテネ五輪出場を逃すなど、低迷していた新体操団体の再建を託され、日本体操協会・新体操強化本部長に就任した山崎浩子氏が、17年にわたって務めた同職をこのほど退任した。

 09年12月には1年の大半をロシアでの強化合宿に充てるという大胆な強化策を立案・実現化し、在任期間に約1500日間のロシア合宿を敢行。「フェアリージャパン」を世界選手権で5大会連続のメダル獲得へと導いた一方で、在任期間中に4度あった五輪では東京を含めてメダルに届かず、苦杯をなめ続けた。

 山崎氏が推し進めた斬新な強化策は成功だったのか。金メダルの期待を受けながら団体8位に終わった東京五輪の“敗因”にも切り込み、17年間の歩みを検証する。(※山崎の崎はつくりの上部が「立」)

17年の任期を終え、東京都内でインタビューに応じた山崎氏(撮影:藤田孝夫)
17年の任期を終え、東京都内でインタビューに応じた山崎氏(撮影:藤田孝夫)

■「改革しなければいけない」覚悟の末の1500日ロシア合宿

 アテネ五輪の団体出場権を逃し、新体操が苦境に陥っていた04年、日本体操協会から強化本部長就任の打診を受けた山崎氏は、最初は迷いもあったが、最終的には要請を受け入れた。1984年ロサンゼルス五輪個人総合で8位入賞を果たすなど、新体操界の第一人者としての使命感があった。

「荷を背負うなら自分だと思い、引き受けることにしました」

 強化本部長として実働し始めたのは05年。06年にはオーディションによって選ばれた団体メンバーによる千葉県内での年間350日合宿生活をスタートさせるなど、強化策を進めた。07年に妖精のように舞うというコンセプトで「フェアリージャパン」という愛称がついた日本チームは、08年北京五輪の団体出場権獲得に成功した。だが、本番では力及ばず予選で敗退する。翌09年には三重県で開催された世界選手権で会心の演技をしたものの、手具落下のミスをした国より順位は下。メダルには届かなかった。

 体操競技は男子がアテネ五輪で団体金メダルを獲得し、北京五輪では団体銀に加えて初出場の内村航平が個人総合で銀メダルを獲得していたが、一方で新体操はメダルに届かない。

「今までのやり方ではダメ。改革をしなければいけない。そう言われていた流れの中での決断が、世界最高峰であるロシアの中に入っていくことでした」

 決めてからの動きは早かった。09年12月にオーディションをし、その数日後にロシア第2の都市であるサンクトペテルブルグに向かった。また、00年シドニー五輪から5大会連続で団体金メダルを獲得している新体操王国から、ロシア代表をユニバーシアード6連覇に導くなどの実績のあるインナ・ビストロヴァ氏をコーチに招聘した。以後10年以上続く ことになるインナコーチとの日々のスタートだった。

抜群のプロポーションを誇った12年ロンドン五輪代表選手たち
抜群のプロポーションを誇った12年ロンドン五輪代表選手たち写真:ロイター/アフロ

■プロポーション最優先で選ばれたロンドン組がロシアで成長

 この時にメンバーに選ばれた、まだ10代半ばの田中琴乃、サイード横田仁奈、畠山愛理らは目を輝かせて飛行機に乗った。ロシアでの合宿生活で山崎氏が決めたのは「ルールは門限のみ。起床時間も就寝時間も自由」という斬新なもの。未知の環境で練習に打ち込むようになった選手たちは、ものすごい吸収力で日々成長していった。

 実のところ、プロポーション最優先で選ばれたこの時期の選手たちは、インナコーチが「世界でもトップクラスの美しさ」と太鼓判を押すほどだったが、技術は決して高くなかった。しかし、技量の不足分を補うのに十分な若さとエネルギーがあった。世界最高峰という折り紙付きの指導を受けることで自信をつけ、日本代表としての意識も高くなっていった。インナコーチは「表現力は内面から出る。そのためには恋愛も必要」と、恋人づくりを指南。練習でも化粧をさせるなど、美意識の向上も徹底された。

 こうして迎えた12年ロンドン五輪で、日本は団体7位入賞を果たした。団体出場権を逃したアテネ五輪、出場したが予選を突破できなかった北京五輪を経てのこの結果は、強化策が正しいという証明となり、13年からは団体だけでなく個人の強化も開始。皆川夏穂らがモスクワでの年間350日合宿を始めた。

年を追うごとに実力を伸ばしていったフェアリージャパン
年を追うごとに実力を伸ばしていったフェアリージャパン写真:ロイター/アフロ

■ロゲIOC会長による「トーキョー」の発表で東京五輪までの覚悟が決まった

 右肩上がりで成績を伸ばし、16年リオデジャネイロ五輪ではメダル獲得をと意気込んでいた13年9月には、20年の五輪開催地が東京に決まった。テレビ中継を見ていた山崎氏は、ロゲIOC会長の「トーキョー」という声を聞き、とっさに「こりゃ大変だ」と気持ちを引き締めたという。

 そこからは強化にさらに力が入った。ロンドン五輪後に数名の選手が入れ替わった新生フェアリージャパンでは、新たに加わった杉本早裕吏らが目の色を変えて練習に取り組んだ。

 すると日本は15年世界選手権の団体種目別リボンで44年ぶりとなる銅メダルを獲得。勢いをつけて臨んだ翌年のリオ五輪では8位入賞にとどまったが、そこで流した涙も次へ向かうためのパワーとなった。リオ五輪から東京五輪までの間、日本はさらに成長速度を上げ、世界での立ち位置を一気に変えていった。

 実力の変遷を山崎氏はこう解説する。

「日本はロンドン五輪の時は7、8位争いぐらいでしたが、15年世界選手権で団体種目別リボン銅メダルを獲得したように、リオ五輪の時は5、6番争いの位置まで行っていました」

 17年以降は世界選手権で3年連続メダルを獲り、19年には種目別ボールで金メダルに輝いた。

「東京五輪では3、4番手にいるかもしれないというポジション。新体操界における日本の存在感は確実に上がっていたのです」

 成績が上がった要因は日本人の真面目な練習ぶりもあるが、それに加え、18年からのルール変更により、難度点が青天井になったことが大きかった。新ルールにいち早く対応できたのが日本だったのだ。

2019年世界選手権種目別ボールで金メダルに輝いたフェアリージャパン。世界のライバルたちの闘志に火が付いた瞬間でもあった
2019年世界選手権種目別ボールで金メダルに輝いたフェアリージャパン。世界のライバルたちの闘志に火が付いた瞬間でもあった写真:アフロ

■19年世界選手権の金メダルが「あだ」となった

 ところが、この時の躍進があだとなった。日本が金メダルを獲ったことにより警戒を強めたロシア新体操連盟は、19年世界選手権を境にインナコーチの日本チームへの帯同許可を停止した。

 ライバル国が日本に倣って演技構成の難度を大幅に上げていったことも、日本を苦しめた。19年世界選手権での日本は、実施点では劣っていても難度点で高いスコアをマークすることによって金銀メダルを手にしていた。それにより、世界中の国々が技を詰め込む傾向に拍車がかかったのだった。

 こうして迎えた東京五輪。金メダルを目指して高難度の技をぎっしり詰め込んだ日本はミスを連発し、またしても8位という結果に終わった。

2021年東京五輪では実力を出し切れなかったが、最後まで心をこめて演技をした
2021年東京五輪では実力を出し切れなかったが、最後まで心をこめて演技をした写真:ロイター/アフロ

■疲弊していても「もっと練習を」 強迫観念を取り除けなかった

 日本は東京五輪で「メダルを逃した」と言われている。これはどのような意味を持つのか。なぜメダルを獲ることができなかったのか。山崎氏が敗因を語る。

「逃したということは、メダルを狙える位置にいたということです。東京五輪の日本は他国のミスを待つのではなく、自分たちがしっかりやればメダルを獲ることができる位置にいました」

 メダルを狙えるという確信があるからこその落とし穴もあった。

「19年世界選手権では試合前でも10本ぐらいの通し練習をして結果を出しました。ですから、東京五輪で金メダルを狙うにはそれ以上の練習をしなければいけないという強迫観念が選手たちにあったのではないかと思います。私の方から『そこまでやらなくてもいい』というアプローチをかけたこともありましたが、強迫観念のような部分を最後まで取り除いてあげられなかった。それが私の失敗だと思っています」

 コロナ禍の影響もあった。19年末にロシア合宿を引き上げて日本に帰っていた団体メンバーは、海外への派遣が見送られたことで、ライバル国の情勢を把握しにくい時期が続いた。21年は3度の欧州遠征を組んだが、その都度2週間の隔離があり、難度がマックスの演技構成をこなすには時間的な余裕がなさすぎた。さらに、ケガによる選手交代も相次いだ。この状況を山崎氏は「必勝パターンを失った」と表現する。

「19年までの日本は、ロシアを拠点にすることによって欧州で行われる多くの国際大会に良いコンディションで出場することができ、試合をこなすことでたくさんの評価情報を手に入れることができていました。20年以降はそれが失われました」

2017年世界選手権で高得点を出して喜ぶ選手たち。インナコーチはいつも彼女たちのそばいた
2017年世界選手権で高得点を出して喜ぶ選手たち。インナコーチはいつも彼女たちのそばいた写真:エンリコ/アフロスポーツ

 インナコーチが東京五輪に帯同できなかったことも必勝パターンの瓦解につながった。日本は東京五輪直前の7月にロシアでの大会に出たが、ロシア体操連盟が1年半ぶりに日本チームへの帯同を許可したインナコーチは、合流した直後に体調不良になって離脱。東京五輪にも来日できなかった。

「いろいろなことが相まって、自信を持って五輪に臨むことができなくなっていました。ずっと必勝パターンでやってきたことがストンとなくなり、精神的に不安になった。強化本部長としては、必勝パターンに持って行けなかったという反省と、必勝パターンを持ちすぎたという反省があります。どんな状況でもチームを良い状態に持っていくことが私の仕事なのですが、そこができなかった」

■4大会連続出場により、多くの五輪経験者が誕生した

 17年の在任期間を振り返り、山崎氏は「あっという間でした」と言う。24年パリ五輪、28年ロサンゼルス五輪は別の立場からフェアリージャパンにエールを送ることになる。その中で山崎氏が期待できると考えているのは、これまでの4度の五輪で大舞台を経験したメンバーが新体操界に多く誕生していることだ。

「五輪を経験した選手たちがコーチ、審判、普及活動など、各自の経験を何かに活かして欲しいと思っています」

 それこそが17年間に山崎氏が生み出した最大の財産だろう。スポーツファンなら誰もが知るようになった「フェアリージャパン」がメダル獲得の歓びを実現すること、そして応援され続けることを、山崎氏は願い続けていく。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

「ジュニアの強化にも力を入れていければ」と語った山崎氏。豊富な国際経験を持つ選手たちの今後の活動にも期待を寄せている(撮影:藤田孝夫)
「ジュニアの強化にも力を入れていければ」と語った山崎氏。豊富な国際経験を持つ選手たちの今後の活動にも期待を寄せている(撮影:藤田孝夫)

サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター

北海道大学卒業後、スポーツ新聞記者を経て、06年からフリーのスポーツライターとして取材活動を始める。サッカー日本代表、Jリーグのほか、体操、スピードスケートなど五輪種目を取材。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。スポーツグラフィックナンバー「Olympic Road」コラム連載中。

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