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【体操】二代目ハイバーマスター 齊籐優佑と“豪快ブレットシュナイダー”(前編)

矢内由美子サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター
鉄棒の演技をする齊藤優佑(写真:アフロスポーツ)

 1956年メルボルン五輪で小野喬が獲得した体操の金メダル第1号が鉄棒だったように、体操ニッポンの“お家芸種目”として知られている鉄棒(ハイバー)。植松鉱治が名乗った「ハイバーマスター」という肩書きを2015年に「二代目」として受け継いだのが齊藤優佑(さいとう・ゆうすけ)だ。ダイナミックな離れ技で体操ファンにインパクトを残し、昨秋に現役を引退した齊藤のもとを訪ねた。

■抜群のバネ。小1で体操を始める

 小さな体に、抜群のバネを持っていた。1988年4月、千葉県船橋市生まれ。幼稚園の体育の時間にマットと跳び箱で非凡なものを見せ、幼児体育の先生から「抜群なセンス持っているから、体操をやらせた方がいいですよ」と言われた母に連れられ、小1から船橋市のフジスポーツクラブ志津教室で体操を始めた。

 同クラブは1988年ソウル五輪などに出場した五輪メダリスト、佐藤寿治氏(現コナミスポーツ体操競技部コーチ)や、2014年世界選手権銀メダリストの野々村笙吾(現セントラルスポーツ体操競技部)を育てたことで知られる名門である。

 幼き日の齊藤は「テレビに映る体操の種目の中でいつも目が釘付けになったのは、鉄棒でした」という。

■鉄棒は苦手だった

 意外なことに鉄棒は得意ではなかったそうだ。

「結構、嫌いな方でした。高いし、怖いし(笑)。それよりもむしろ、瞬発力がすごかったみたいで、跳馬やゆかの方が得意でした」

 その言葉通り跳馬では、市立船橋高校3年のときから日本体育大学時代、社会人の徳洲会体操クラブ時代まで、9年連続で全日本種目別選手権決勝に進んだ。

 かたや鉄棒は高校時代から苦手で、大学時代もそのままだったそうだ。

 そんな齊藤が鉄棒を得意だと思えるようになったのは、徳洲会体操クラブに入ってからだった。きっかけはF難度の大技「カッシーナ(伸身コバチ1回ひねり)」だ。

「社会人1年目(2011年)の夏ごろの試合で、カッシーナを試合で使えるようになったんです。その当時は、カッシーナをやる選手は日本でも数えるぐらいしかいませんでした」

 実はカッシーナを習得したのは日体大4年の頃だったという。日体大で同期の内村航平(現リンガーハット)がインカレや全日本選手権でカッシーナをバンバン成功させ、会場を沸かせている姿を見て、闘志に火が着いた。そして、練習を繰り返しながら、どうにかものにした。ただ、その頃はまだ、試合で使えるレベルではなかった。

 齊藤は、もともとは鉄棒が苦手だったにもかかわらず高難度のカッシーナをマスターしていった流れの原点は、高校時代にあると説明する。

「基本的に市立船橋高校では、鉄棒の離れ技では最初に『トカチェフ』をやるんです。取り組みやすいし、簡単だから覚えやすいというのが理由なのだと思います。だから、市船橋出身の選手は歴代を見ても『トカチェフ』が得意な選手が多い。

 でも、僕は肩がすごく硬くて、『トカチェフ』が下手クソだったんですよ。自分には向いていない、どうしよう、となったときに先生に『お前はこれをやれ』と言われたのが『コバチ』でした」

 こうして齊藤は、高校入学からほどなく「コバチ」を練習し始め、冬には使えるようになった。しかし、そもそも肩が硬いため、当時の採点ルールで重要だった連続のひねり技は不得手。高校と大学では得意というレベルまで達することはなかった。

「カッシーナ」の習得が転機となった(撮影:矢内由美子)
「カッシーナ」の習得が転機となった(撮影:矢内由美子)

■コバチからカッシーナ

 けれどもここで素晴らしいのは、それでも齊藤が鉄棒をあきらめなかったことだ。

 社会人の徳洲会に入った後、大学時代にマスターしていた「カッシーナ」を試合で使えるレベルまで磨き上げ、演技構成に組み入れると、一気に違う世界が開けた。

 得点が伸び、成績が上がり、多くの人から注目されるようになった。

 カッシーナを最初に成功させたのは2011年8月に出た国体の関東ブロック予選。すると、初挑戦で初成功。そこが「鉄棒の齊藤」のスタート地点だった。

 その後はトントン拍子で上昇していった。2011年11月の全日本種目別選手権では、自身でも予想していなかった決勝に進出。8人による決勝では「カッシーナ+アドラーハーフからのコールマン」という連続技を成功させ、4位になった。

「予選通過が8位だったので、失うものはないから攻めてみようと思ったら、そのまま成功しちゃったんですよ。そして4位になったんです」

 期せずして全日本種目別選手権の表彰台まであと一歩の4位となったことで、齊藤は目標設定を一段上げた。そして冬期の練習内容を今ひとたび洗い直し、鉄棒を得意種目と転じさせていった。

「僕の場合は瞬発力があるので、それを鉄棒でも生かせたのが良かったと思います。だから、カッシーナにしても、他の選手と比べると高さがあるし、持った時の余裕もありました。たぶん、僕は他の人の力の3分の2ぐらいのパワーで、カッシーナをやっていたと思います」

鉄棒の下に立つと落ち着くという(撮影:矢内由美子)
鉄棒の下に立つと落ち着くという(撮影:矢内由美子)

■H難度「ブレットシュナイダー」で人気急上昇

 ダイナミックな「カッシーナ」で人気を獲得した齊藤が、その名を一気に広めたのが「ブレットシュナイダー(コバチ2回ひねり)」だった。

 この技は2014年12月のドイツDTBカップ(W杯シリーズ)でドイツ人選手のアンドレアス・ブレットシュナイダーが成功させ、その名がついた技。齊藤はこの大会に個人総合で出場しており、ブレットシュナイダーが初めて成功させた場面を生で見ていた。

「彼がやっているのを見て、『あ、人間、やればこれができるんだ』と思ったんです。コバチ2回ひねりは、それ以前から多くの人が考えていたことなんですが、『あり得るよね』『いや、無理でしょ』という感じでした。それを生で間近に見て、できないことはないと思ったのです」

 齊藤は2015年4月の全日本個人総合選手権の後からブレットシュナイダーに取り組み始めた。とはいえ、この技は当時の男子最高難度。すぐに習得できるような技ではなく、同年6月の全日本種目別選手権には、「カッシーナ+コバチ+コールマン」の3連続離れ技で挑んだ。これが見事にうまくいき、齊籐は全日本種目別選手権鉄棒で初優勝を飾った。

 ところが、齊藤が全日本種目別選手権で初優勝してからほどない時期だった。「ハイバーマスター」という肩書きで知名度を上げていた植松鉱治が、引退を決意。2015年限りで現役を退くことになった。

 齊藤の胸に寂寥感が沸き上がった。鉄棒の面白みをもっと深く知り、体現していきたいと思っていた矢先の“ミスター鉄棒・植松”の引退。

「ハイバーマスターがいなくなっちゃったら、僕は誰を目標に鉄棒を頑張ればいいんですか」

 植松は言った。

「これからはお前がハイバーマスターや。俺を受け継いで、みんなを、会場を盛り上げてくれ」

 植松から「ハイバーマスター」を継いでくれと言われた齊藤は最初、荷が重いと感じたという。

「植松さんの後なんて、僕にはつとまらないと思ったんです。でも、せっかくそうやって言ってくれるのだったら、僕が継ぐしかない。じゃあ、『ブレッドシュナイダー』を使うしかない」

 こうして齊藤はH難度の超大技、ブレットシュナイダーを使う覚悟を決めた。落下のリスクを伴う、諸刃の剣である。しかし、齊藤は恐れなかった。「二代目ハイバーマスター」としての心意気が挑戦心を駆り立てた。

 齊藤がブレットシュナイダーに成功したのは2016年4月の全日本個人総合選手権。リオデジャネイロ五輪代表選考会の熱戦が続く中、齊藤が世界中の鉄棒ファン垂涎の大技を成功させると、会場は大きくどよめいた。齊籐は個人総合では自己最高の4位となった。

(敬称略)(後編に続く)

 ◆齊藤優佑(さいとう・ゆうすけ) 1988年4月9日、千葉県佐倉市出身(生まれは愛媛県宇和島市)の31歳。小1からフジスポーツクラブ志津教室で体操を始め、市立船橋高校から日本体育大学を経て徳洲会体操クラブへ。2018年限りで現役を引退し、2019年3月に退社し、現在は体操教室で子どもたちを指導。得意種目は跳馬、鉄棒。身長165cm、体重56kg。利き手は右。好きな鉄棒の選手はエプケ・ゾンダーランド。「33歳になっていまだに進化し続けている。それとあのビジュアル。そして医師。それにつけてすごく良い人なんです。試合会場でも話しかけてくれますし。そんな完璧な人間いますか?(笑)」

サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター

北海道大学卒業後、スポーツ新聞記者を経て、06年からフリーのスポーツライターとして取材活動を始める。サッカー日本代表、Jリーグのほか、体操、スピードスケートなど五輪種目を取材。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。スポーツグラフィックナンバー「Olympic Road」コラム連載中。

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