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【体操】白井健三 新春インタビュー「想像もしていない自分が東京五輪にいてほしい」

矢内由美子サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター
2020年東京五輪に向かって新年のスタートを切った白井健三(撮影:矢内由美子)

昨夏に開催されたリオデジャネイロ五輪で、体操男子団体の一員として日本に3大会ぶりの金メダルをもたらし、種目別跳馬でも銅メダルに輝いた白井健三(日体大2年)。得意のひねりを武器に、ゆかと跳馬で自らの名のつく技を計5つ持っている“ひねり王子”は、リオ五輪の日本人最年少金メダリストとして紫綬褒章も受章するなど、今や日本を代表するアスリートとなった。

現在20歳。キング内村航平から“後継者”としても指名されている若き天才に、リオ五輪で金メダルをつかむまでの歩み、東京五輪への思いを大いに語ってもらった。

■「想像もしていない自分が東京五輪にいてほしい」

――東京五輪に向けて新たなスタートとなる2017年がやってきました。これからの3年半をどのように過ごし、どのような2020年を迎えたいですか。

「リオ五輪に行く前から、リオは経験で、その経験したことを東京で活かすということを考えていました。リオでは良かったことも悪かったこともありましたし、生活面でも感じることがたくさんありました。ただ、ひとつ言えるのは、ロンドン五輪からリオ五輪の4年間の自分の成長は計り知れないほどだったということです。ですから、東京五輪に向かっての予想はしたくないと思っています。ここまで行きたいという目標を定めると、そこまでしか行けないと思うからです。想像してもいない自分が東京五輪にいて欲しいが故に、目標はあえて立てていません」

――目標を立てないというのが経験値から来ているということですね。

「あ、こんなこともできた、ということが、いつどこで訪れるか分からないんですよ。ですから東京五輪に目標を合わせてしまうと、これからの3年間がすごく薄くなってしまう気がするんです。明日はこれ、1週間後にはこれという、細かい目標を立てた結果が東京五輪のとんでもない結果に結び付いている。そうなっていれば良いかなと思います」

■17歳で鮮烈な世界デビューを果たした

――白井選手は17歳だった2013年に鮮烈な世界選手権デビューを果たしていますが、そのときからリオ五輪での活躍はイメージできていたのですか?

「2013年はゆかで金メダルを獲ったのですが、そのときはリオ五輪に行けるとは思いませんでした。2014年も同じです。なぜかというと、2013年は団体戦がなく、個人総合と種目別だけでしたし、団体総合が行なわれた2014年は僕がゆかでラインオーバーをして0・3の減点があったことで、中国に負けて銀メダルに終わったのだと思っています。ですから団体に貢献したという感覚を持てず、むしろこのままでは五輪メンバーには必要のない選手だと思っていました」

――リオ五輪に出るんだという強い気持ちが出て来たのはいつ頃ですか?

「2015年4月に日体大に入ったことが大きかったと思います。日体大には五輪を目標とする選手が大勢いるからです。僕が1年生のときは岡準平さん(現・徳洲会体操クラブ)がキャプテンで、どうやったらリオ五輪に行けるかを、よくみんなで考えていました」

――日体大体操競技部の仲間で日頃から五輪を意識して話し合っていたのですね。

「まずは2015年の世界選手権の代表に入るための選考基準について、長谷川智将さん(現・徳洲会体操クラブ)や神本雄也さん(現・日体大4年)たちと、『ここをこうすれば、みんなで世界選手権に行ける』ということをよく話していました。その延長で『五輪に行くためには』という話もしていました。そういうことを話しているうちに、自分が五輪で果たすべき役割が明確になってきたのです」

――長谷川選手はあん馬のスペシャリストとして、そして神本選手は個人総合でリオ五輪を狙っていましたね。それにしても、白井選手の才能は周りの人からものすごく高い期待を受けるほど特別なレベルですが、その期待が負担になることはありませんか?

「そういうことはあまりありません。僕に対しては(シライという名前のつく)新技を期待している人が多いと思うのですが、その期待に負けたくないと思うんですよ」

――リオ五輪では金メダルが堅いとみられていたゆかでまさかの4位。その後の跳馬で見事に気持ちを立て直し、『シライ2』(ユルチェンコ3回半ひねり)を成功させ、銅メダルをつかみました。

「リオのときは、ゆかで負けたあとの跳馬だったので、絶対に新技の『シライ2』をやってやろうと思っていました。五輪の舞台で新技をやってみんなを驚かせたいという気持ちになったのです。でも、今思えば、ゆかで負けたことによって、あの跳馬ができたので、人生ってそういうものなのかなと思います。人は1つ失敗すると、1つ開き直れてうまくいくというような。仮に僕がゆかでメダルを獲っていたら、跳馬では新技を跳ばなかったと思いますから、そういう意味でうまくできているんだなと思いました」

――日体大に入って2年がたとうとしていますが、体操に対する意識は高校時代と変わりましたか?

「高校時代は体操から離れると体操の話をしたくないというタイプだったのですが、今は体操競技部の寮に部員みんなで一緒に住んでいるので、体操の話をする時間が格段に増えました。たとえば同期の選手が、どうやったらもっとうまく点数を獲れるようになるかをみんなで考えることもありますし、日頃から体操に関しての会話をすることがすごく増えました」

■世界舞台への助走

体操の指導者である両親を持つ白井は1996年8月24日、神奈川県横浜市で生まれた。6歳上と3歳上の兄2人が先に体操をやっていたことで幼少時から体操に慣れ親しみ、体育館が遊び場という毎日を過ごしていた。

小学校に上がると両親の母校である日体大のジュニア育成プロジェクト「日体スワロー」に参加し、小5でジュニア・ナショナルメンバーに選ばれるなど順調に成長した。

ところが中1になると成績が伸び悩んだことで、練習にも身が入らなくなった。中1の9月、日体スワローから、両親がつくった「鶴見ジュニア体操クラブ」へ移籍。けれども当初はそこでも真面目に練習に打ち込むには至らず、両親はもちろんのこと、周囲の大人たちがこぞって「特別な才能を持つこの選手を何とかしなければいけない」と気をもんだという。

水口晴雄コーチが「鶴見ジュニア体操クラブ」に入って来たのは、白井が中2の4月。かつてジュニアのナショナルコーチとして小学生時代の白井を教えていたこともある水口コーチは、巧みに白井のやる気を引き出していった。白井も白井の両親も「水口先生がいなかったら今の健三はない」と口をそろえる人物だ。

――水口コーチにはどんな印象を持っていましたか?

「最初、水口先生はすごく怖くて、僕としてはイヤでたまらなかったのですが、教え方がとてもうまいんです。それで、だんだんとやる気になっていきました」

――水を得た魚となった白井選手が初めて全日本種目別選手権に出たのは、2011年11月。中3のときでしたね。

「種目別のゆかで、内村航平さんに続く2位になりました。でも、僕自身は特別な感覚がなく、遊びで全日本に出させてもらったという感じでした。体操では中学まではジュニアルールというのがあって、技の種類にも数にも制限があるのですが、全日本選手権はシニアのルールでやります。いろいろな技を入れて難しい構成を組むことができるので、とても楽しかったことを覚えています」

――リオ五輪までのゆかの演技のベースとなる構成を初めて試合で使ったのは、2012年にあった高1のインターハイの予選だったそうですね。技の難度を表すD得点が7・4。リオ五輪のときのD得点が7・6ですから、高1で既に世界ナンバー1クラスの難度をこなしていたわけです。

「高1だった2012年のインターハイでは15・9の高得点を出すことができました。2013年の世界選手権に代表として選ばれるためには、この15・9という数字が派遣標準点として設定されていたので、その時点で突破していたことになります」

■幸運であり強運。白井が17歳で世界選手権に出られたのはなぜか

――そして2012年12月には、後にの白井選手の運命を変えることになったアジア選手権(中国)がありました。

「12年12月に中国で開催されたアジア選手権の代表に選ばれて、ゆかと跳馬とあん馬に出場し、ゆかで優勝、跳馬で6位になりました。本来、この大会にはシニアの選手が出場するのですが、その年は僕らジュニアの世代が行くことになったのです」

日本協会が白井選手たちの世代をアジア選手権に派遣したのは、当時、中国で反日感情が高まっていたことで、トップメンバーでチームを組まないことになったのが理由だった。ところが、翌2013年になってみると、その年から世界選手権の出場年齢が男子18歳以上、女子16歳以上と定められ、そこに「前年のシニアの大会に代表として出ていれば18歳以上ではなくても出場を認める」という但し書きがついた。

つまり、2012年のアジア選手権に出ていなければ、白井が17歳で2013年の世界選手に出ることはできなかった。これはほとんど知られていないエピソードだ。

――アジア選手権ではゆかで金メダルを獲りましたが、率直にどんな気持ちでしたか?

「シニアの世界選手権出場の権利をアジア選手権で得ることができるなんて思ってもいなかったので、ただ出て、ゆかで優勝して『おお、やった!』という気持ちで帰ってきただけでした。まさか次の年に生きてくるとは思いもしなかったです」

――1年後の2014年世界選手権は団体戦がありましたから、そこでいきなり実績のまったくない高校生が選ばれるという流れになっていたかどうか。そう思うと、アジア選手権出場から運命に導かれたような歩みが始まっていたように感じます。

「本当に運だと思いますし、周りがチャンスをつかませてくれたという感じです。まさか誰も17歳で世界選手権に出られるとは思わないじゃないですか。それを実現させてくれたという、そういう周りの人に巡り会えたのが運だと思います」

■内村航平選手はどんな存在?

――リオ五輪を終え、体操ニッポンの顔でもある内村航平選手がプロに転向しました。内村選手の姿を見てどう感じますか?

「やっぱり常に新しいことをやってくれるのが航平さんだなという印象です。リオ五輪では団体決勝で優勝して一緒に喜んでいたのに、その2日後にはファンになっていました」

――男子個人総合でオレグ・ベルニャエフ選手(ウクライナ)との体操史に残る名勝負を演じて連覇を達成した内村選手の戦いぶりにはしびれました。

「あの感動は言葉じゃ表せなかった。すごいとか、感動したとか、そういうスケールではなかったです。ただ、神様というまで遠い存在ではないと思うんです。以前は憧れの選手だったのですが今は目標の選手です」

――内村選手からはゆか、あん馬、つり輪、跳馬、平行棒、鉄棒の6種目の合計で競う個人総合の後継者にも指名されています。

「以前は僕が航平さんに期待しているという関係でしたが、今は逆に航平さんが僕に期待してくれることがすごく多く、やはり、世代交代の時期に入ってきているというのも感じます。実際に航平さんが世代交代ということを公の場で口にすることもありますから、これは実現していかなくてはなりませんね」

――世界チャンピオンから後継者に期待されるというのはいかがですか?

「とても光栄ですし、航平さんも『できることは何でも手伝ってやる』と言ってくれているので、積極的に技のアドバイスを聞くこともできています。例えば航平さんがやっている技を教えてもらったり、アップの仕方を教えてもらったり、いろいろなアドバイスをしてくれます」

――リオ五輪での内村選手の姿を見て、何か感じ入ったところはありましたか?

「五輪本番は自分の練習を大事にしなければいけない時期だと思うのですが、事前合宿でも現地に入ってからも、僕が苦手なあん馬を指導してくれるなど、すごく余裕を持っていると感じました。選手村に入ってからも、『そろそろ食事に行こうか』とみんなを誘ってくれたり、すごくリーダーシップをとってくれていて、頼もしかったですね」

――プロ転向は驚きましたか?

「プロになるという記事が出た後、全日本団体選手権前くらいのときに、航平さんから電話をいただいて『話しておきたいことがある』と言われました。具体的な話を聞いたわけではないのですが、誰もやっていない道を選ぶ勇気がすごいと思いましたし、自分の立場を理解していることがすごいと感じました」

――電話で報告を受けたのですね。

「その話と、あとは東京五輪に向けての話です。どうやって世代交代をしていくかという話や、普通に体操の話をしたりしました。航平さんとはいつもほとんど体操の話なんですが、止まらなくなっちゃうので1時間くらい話すこともあります。時々お子さんの声も聞かせてもらいます(笑)」

――世代交代について語り合っているということ?

「そうですね、けれどもそれは僕や航平さんだけが思っていることではなく、日本の選手たちは誰もがどこかで考えていることだと思います。日本の体操は航平さんに頼ってきた時間が長いので、負担を軽減させてあげなきゃいけないとみんなが考えていると思います。それを実現できる一番近い位置にいるのが加藤凌平さん(コナミスポーツクラブ)や僕だと思います」

■白井が描くオールラウンダーへの道

ゆかと跳馬のスペシャリストとして世界トップに立った白井だが、東京五輪では6種目を行なうオールラウンダーとして出場し、団体総合でも個人総合でも金メダルを手にしたいと話している。

――ゆか、跳馬に続く3番目として、平行棒はすでに得意種目の域に入ってきましたね。昨年11月の全日本団体選手権ではバーを握り直すことが一度もない、素晴らしい演技をしました。

「平行棒の前に日体大のメンバー6人で円陣を組んで、主将の神本さんが『ここまでバッチリの演技がまだない。バッチリの演技を狙っていこう』と声を出したのを聞き、すごく引き締まりました」

――高校までとは違う?

「高校生のころは自分のためでした。でも自分のためだけにやっていると、調子が悪いときなどにイライラしてしまうことが多かったのですが、大学生になってからは、自分の調子が悪い時は他の選手の演技を見ることで気持ちが閉鎖的になることがなくなりました」

――大学に入ってから、あるいはリオ五輪の経験で活きていることはありますか?

「僕は試合の1時間前のアップで体が重いと感じるときの方が調子がいいんです。昨年5月のNHK杯のときは、アップのときの調子がすごく良かったので、やばいと思っていたら、案の定ボロボロでした。その反省もあり、11月全日本団体の時に、初めてしっかりと昼ご飯を食べて少し体を重くしてから試合をしてみたのですが、結構良かったので、そういうのは経験が増えたなと思います」

――試合前はあまり食べていなかったのですか?

「リオ五輪の前までは余裕がなく、会場に入ってしまうと試合に集中しすぎてゼリーなどの軽めなものしか食べられませんでした。けれどもリオ五輪を経験してからは、あれ以上の試合はないと思えるようになって、自分の中でコントロールが効いてきたように思います。航平さんはそれが僕の2倍3倍あって、どれを引き出したらいいかというのが常にわかっている状況だと思いますね」

――白井選手は今、いろいろなことへの対処法をひとつずつ身につけているところですね。

「あとは調子が悪い時も、それを周りに見せないということを意識しています。集中力でカバーするとか、調子が悪い時も笑っていたりなど、そういうことをすごく意識しています。周りに迷惑をかけない、影響を与えないという練習をしています」

――最後にあらためて東京五輪で思い描いていることを聞かせてください。

「東京五輪は日本のための五輪だったなと思わせるような大会にしたいですね。そして個人では、リオ五輪体操女子のシモーン・バイルス(米国、金メダル4個獲得)のような、白井のための五輪だったと思わせるような試合をしたいと思います」

――ありがとうございました。

2013年世界選手権へ向かう17歳の白井健三(左)(撮影:矢内由美子)
2013年世界選手権へ向かう17歳の白井健三(左)(撮影:矢内由美子)

後記:2013年に初めて取材したころの白井選手は「屈託がない」という言葉がピッタリで、まだ子供っぽさが残っていた。大人への変化が見え始めたのは2014年の世界選手権で団体銀メダルという悔しさを味わってから。そして、2015年日体大に進学した後は、畠田好章監督の指導の下、団体への責任感を身につけることで顔つきも振る舞いもすっかり一流の選手になっていったように思う。

メンタルの成長と比例して、体操の幅も広がった。2014年までは「ひねりのスペシャリスト」だったが2015年からは「縦回転」を加え、また、個人総合への意欲を公の場で積極的に口にするようになった。リオ五輪までは「ゆかと跳馬のスペシャリスト」だったが、今では平行棒でも団体戦に貢献できるレベルになりつつあり、鉄棒とつり輪も徐々に実力をつけている。ゆかで大きく得点を稼ぐことができるだけに、鉄棒とつり輪でもっと点を上乗せし、課題のあん馬を平均レベルまで上げて行ければ個人総合金メダルの目安である92点に近づいていけるのではないだろうか。

トップアスリートの多くが高い目標を設定し、そこから逆算して目標にたどりつくという手法を採る中、白井選手はあえて目標をつくりたくないという。限界をつくらない思考での挑戦に、取材する側も興味は尽きない。

白井健三(撮影:矢内由美子)
白井健三(撮影:矢内由美子)
サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター

北海道大学卒業後、スポーツ新聞記者を経て、06年からフリーのスポーツライターとして取材活動を始める。サッカー日本代表、Jリーグのほか、体操、スピードスケートなど五輪種目を取材。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。スポーツグラフィックナンバー「Olympic Road」コラム連載中。

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