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メディア信頼回復の鍵は「透明化」 有志提言の“原案”が提起していた「真の問題」とは

楊井人文弁護士
賭け麻雀問題を受けて作成された提言「原案」

 今年5月発覚した黒川弘務・東京高検検事長(当時)と新聞記者らの「賭け麻雀」問題を受け、「ジャーナリズム信頼回復のための提言」が7月10日、南彰・新聞労連委員長ら6名の発起人により発表された。この提言をめぐるシンポジウムがきょう18日、開催される

 私も当初、提言の賛同人に名を連ねる予定だった。だが、原案の根幹部分が大幅に“後退”してしまったと判断し、辞退した。公表された提言のどこに問題があると考えたのか。なぜ後退してしまったのか。ジャーナリズムのあり方をめぐる議論に一石を投じることになればと思い、原案と比較検証して、問題点を明らかにしようと思う(以下、公表された提言は「提言」、原案は「提言原案」と表記する)。

7月18日夜、シンポジウムが「信頼回復のための6つの提言」を受けて行われる
7月18日夜、シンポジウムが「信頼回復のための6つの提言」を受けて行われる

 「提言」は、「賭け麻雀」はそれ単独の問題ではなく、「オフレコ取材での関係構築を重視するあまり、公人を甘やかし、情報公開の責任追及を怠ってきた結果」であり、「官邸記者会見の質問制限問題、あるいは財務事務次官による取材中の記者へのセクシュアルハラスメント問題に通じる、日本のメディアの取材慣行や評価システムに深く根ざした問題」だと指摘している。

 具体的な問題点として「権力との癒着・同質化」「記者会見の形骸化」「組織の多様性の欠如」など5点を列挙。「あらゆる公的機関にさらなる情報公開の徹底を求める」「取材・編集手法に関する報道倫理のガイドラインを制定し、公開する」など6つの提言を盛り込んだ(提言全文)。

 一見して、至極まっとうな内容のように思われるかもしれない。しかし、提言原案を比べると大きく後退した部分がある。そのため、今回の「賭け麻雀」問題が浮き彫りにした、日本のジャーナリズム(特に大手メディア)の抱える真の問題と、改革の方向性が曖昧になってしまったと思えるのである。

原案は匿名情報源への依存を問題視

 「提言原案」には、次のような文章が入っていた(提言原案の全文)。

記者会見という公開の場では表面的な質問に留め、早朝や深夜に密かに会って情報を入手する。個人的な関係を築くため、ときに相手の機嫌を伺い、飲食を共にする。そうやって得た情報を「関係者によると」や「政権幹部によると」などと匿名情報源の特ダネとして報じ、業界で評価されるという閉じた世界でした。

報道機関への不信感が広がる中で、匿名情報に基づき、客観的な証拠のない報道は影響力を失い、信頼性という自らの存立基盤を掘り崩していくという現実に向き合わなければなりません。市民に対して「実名報道」を主張する一方で、権力者を匿名にする報道のあり方への不信感も高まっています。

 このようにストレートに、親密な関係によって築いた「匿名情報源」に依存する従来の報道のあり方を問題提起していた。

 その上で、5項目の提言で、「報道倫理ガイドライン」に「情報源の明示の原則」を打ち出すことを提案していたのである。

特に、情報源は可能な限り明示するとの原則に則りつつ、匿名の情報源の取り扱いや取材対象の接し方など、どのように信頼性を担保するのか明示する。

 さらに「オフレコ取材に基づいた特ダネ競争を重視してきたメディアの体質が、情報公開に消極的な日本の公的機関・公人の体質を助長してきた面がある」と率直な「反省」を示しつつ、「記者会見や情報公開など、開かれた取材手法を積極的に活用し、検証可能な報道に努める」という提言も盛り込んでいた。

 ところが、最終的に公表された提言では、こうした文言が姿を消した。提言のタイトルも「開かれたジャーナリズムへの提言」から「ジャーナリズム信頼回復のための提言」に改められ、提言から「(報道機関の)透明性を高める」という表現もなくなった。

 かわりに、公的機関に対し「情報公開の徹底を求めるべき」「内部通報者や情報提供者が決して不利益を被らない社会を目指す」「日本人男性中心の企業文化」への反省、といった文言が新たに入った。どれも間違ったことは言っていないのだが、メディア自身の問題に焦点を当てるより、業界の外側にある問題に目を向けさせようとしたとも読める。その結果、「信頼回復」のために、何をどう改革すべきなのか、という方法論が曖昧になってしまった感は否めない。

 

匿名報道の慣行がはらむリスク

 しかも、提言では「情報源の明示」への言及を避けて、「取材源を匿名にする場合は、匿名使用の必要性について上記ガイドライン(注:各社が定める取材・報道倫理のガイドライン)を参照する」という表現になった。これでは、匿名報道が常態化している現状を追認しているのと何ら変わらないのではないか。

 また、提言では「権力者を安易に匿名化する一方、立場の弱い市民らには実名を求めるような二重基準は認められない」とも書かれている。だが、個人情報保護を流れから、市民の匿名化もかなり進んできたのが現実だ。これでは「権力者も市民も等しく匿名化」という流れに歯止めがかからないのではないか。

 匿名情報に基づく報道は日常的に行われている。最近の2つの事例を挙げよう。

 共同通信は7月11日、「立憲民主、国民民主両党の合流を巡る水面下交渉が、党名を巡って難航していることが分かった」と報じた。新党設立方針では一致したとも報じたが、その情報源は「複数の関係者が11日、明らかにした」「関係者は『党名以外は折り合った』と明かした」という書きぶりだった。典型的な匿名報道だ。これに対しては、両党幹部が「一致していることはない」「誤報」と一斉にコメントを出した(枝野幸男・立民代表福山哲郎・立民幹事長玉木雄一郎・国民代表)。その後、15日に枝野氏から玉木氏に新党設立の提案がなされたとの発表があリ、共同の報道は大筋で間違っていないように見える。一方で、政策面でも合意に達したという情報は一向に出ておらず、本当に「党名以外は折り合った」のかどうか疑問も残る。

読売新聞2020年7月14日付朝刊
読売新聞2020年7月14日付朝刊

 もう一つ挙げよう。読売新聞は7月14日、「東京都内で新型コロナウイルスの陽性を確認後、連絡が取れなくなっているケースがあるとして、政府と都が近く対応を協議する方向で調整していることが分かった」と報じた(朝刊1面「陽性後『連絡取れず』多数)。陽性者のうち「入院・療養等調整中」と分類されている479名について「政府関係者は『このうちの多くと連絡が取れない状況になっている』と語る」と、ここでも情報源は「政府関係者」としか書かれていなかった。これに対し、小池百合子知事は、同日中に「連絡が取れていないのは1人」だと報道を否定した。決め手となる客観証拠はないが、都の公式発表を信用するなら、匿名情報源の報道は誤報とみなされることになる。

 この2つの例をとってみても、匿名情報源に依拠した報道は、誤報の疑いをかけられやすく、メディア側が正確な報道だと反証することも難しい。その結果、むしろメディアの信用を傷つけるだけになるのではないか(立岩陽一郎「報道ステーションが使った『アメリカ政府関係者』の怪」も参照)。

 提言原案では、この点についても、鋭い指摘をしていた。

その情報は、独立性や公平性があるのか。その匿名の関係者は本当にそう言ったのか。読者や視聴者には確認する術がありません。「マスゴミ」と揶揄されるマスメディアに対する脆弱な信頼を見透かすように、証言者自身が発言を翻して「誤報だ」とネットで直接発信する例もあります。

 オフレコ取材を否定しているわけではない。オフレコ取材でしか得難い、公益性の高い重大な情報というものは、実際にあるだろう。朝日新聞の編集部門責任者は、今回の「賭け麻雀」問題の検証記事で「隠されていた不正や腐敗を掘り起こす調査報道でも、こうした取材が端緒となった例が数多くあり、報道機関の重要な責務と考えています」と書いている(5月20日付「私たちの報道倫理、再点検します」)。ただ、調査報道では、オフレコ取材だけで書くことはまずない。客観的な証拠との突き合わせによる事実確認が行われ、誤報だと指摘されても反証できる材料を用意しているものだ。

 問題は、調査報道でも何でもない、漫然と日常的に行われているオフレコ取材・報道だ。同業他社と競い、いち早く「すっぱ抜く」ためにインナーサークルの人々と親密な関係を築く。そうして得られた虚実ない交ぜの「匿名」情報源による「談話」を、他の証拠と突き合わせることもなく、事実と解釈の境界を曖昧にして報じる「報道慣行」である。これは「アクセスジャーナリズム」とも言われる。

なぜ「情報源の明示の原則」にこだわる必要があるのか

 かつて藤田博司・元共同通信論説副委員長は、『どうする情報源 ー 報道改革の分水嶺』という著書を発表し、日本のメディアに「情報源明示」の原則を打ち立てるよう提言した。もう10年も前のことになる(関連記事:【追悼】「報道改革」を訴え続けた藤田博司さん)。

藤田博司著「どうする情報源」(リベルタ出版、2010年)
藤田博司著「どうする情報源」(リベルタ出版、2010年)

 同書で藤田氏は、日本では「情報源明示」の原則が徹底していないため、「情報源と一体化」した記者や報道スタイルが横行し、ジャーナリズムの質や報道の正確性、信頼の低下を招いていると指摘していた。

 その中では、記者会見よりもオフレコ取材を重視する「記者クラブ」の閉鎖性も、俎上に上がっている。かつて、官邸記者室で首相に会見の切り抜け方をアドバイスする「指南書」が発見されるという“事件”もあった(これを明るみにして報道したのが西日本新聞)。今回の「賭け麻雀」問題に限らず、取材対象との不適切な関係、癒着ぶりが露わになり、信頼を傷つける出来事は、これまでたびたび起こってきた。

 藤田氏は「情報源明示」の原則を確立すれば、記者クラブのあり方も含め、記者と取材先との関係性が大きく変わるはずだと訴えていたのだ。

 取材、執筆の過程でつねに情報源の明示を意識すれば、政府広報紙的な文体の記事は書けなくなる。おのずと取材対象と自分の間に一定の距離をおき、相手と一体ではないという立場を繰り返し意識せざるをえなくなる。そうなれば、これまでのように無意識に、不用意に相手に一体化して書いてきた記事の中身も、批判的な吟味を経たものになると期待できるだろう。(・・・)取材現場が長年、続けてきた慣例を大きく変えるには、相当の抵抗があることも覚悟しなければならない。抵抗はメディアの内側からだけでなく、取材先からも出てくるだろう。取材対象との関係がぎくしゃくし、取材活動が難しくなる場合もあるに違いない。現場が直面する困難は並大抵ではないだろう。

 しかしこの改革は、メディアにとっても、現場で働く記者たちにとっても、その困難を克服するに値する大きなメリットをもたらすはずである。最大のメリットは、ジャーナリズムに対する読者、視聴者の信頼が高まると思われることである。

ー藤田博司「どうする情報源 ー 報道改革の分水嶺」219頁

 メディアの中には、すでに「情報源明示」をガイドラインに盛り込んでいるところもある(例えば、共同通信の記者行動指針など)。だが、形だけ「情報源の明示」と書けばよいという話ではない。「原則」を明確にする意義は、例外(匿名化)の場合に「なぜ匿名にしなければならないか」をその都度、読者に説明しなければならない点にある。

 「情報源明示」原則の根底にあるのは、読者にオープンにできる情報は可能な限りオープンにする、それによって報道の質を高め、読者の信頼を獲得する、という考え方にほかならない。

「信頼回復」に向けて「オープン化」「透明化」を

 今回の「賭け麻雀」問題を受け、産経新聞は6月17日付で詳しい検証記事を掲載した。だが、驚くことに、相手の東京高検検事長に関する記述を全て「取材対象者」と表記し、完全匿名化を貫いていた(なお、朝日新聞は実名で報じている)。東京高検検事長と記者が賭け麻雀をしていたことは法務大臣も公表済みの「公知の事実」なのに、である。

産経新聞2020年6月17日付朝刊
産経新聞2020年6月17日付朝刊

 匿名化を貫いたのは、取材先との信義を第一とし、「産経新聞記者は情報源秘匿の約束をした場合は必ず守る」という記者指針を何が何でも守る、という考えなのかもしれない。であれば「情報源秘匿の約束をしており、匿名解除の同意が得られなかった」などと説明すればまだ分かるが、記事には匿名化を貫いた理由についても一切説明がなかった。相変わらず取材先との関係性を第一とし、読者に説明を尽くして信頼回復に努める、という考えがすっぽり抜け落ちているのではないか。

 そもそも今回のような不祥事が起きた際に、公的機関であれ私企業であれ、記者会見を行い、外部から厳しい質問を受けるものだ。当たり前だが、法務省は記者会見を行っている。有識者による法務行政刷新会議を設置している。

 だが、今回の「賭け麻雀」問題でメディア側が記者会見を行った、という話は聞かない。有識者を入れて信頼回復に向けた議論を行う、という話も聞かない。メディアは常日頃、不祥事を起こした公的機関や企業に対して「説明責任を果たせ」と言ってきた。なぜ新聞社だけは、記者会見を行うという発想がないのか。なぜ今回の問題についての社会、市民の「知る権利」には答えずに、一方的に紙面で説明して終わろうとするのか。ここに、問題の本質があるように思える。

 一言で言えば、閉鎖性、独善性である。そして、このことは長年、メディアの様々な問題が起きるたび繰り返し指摘されてきたことでもある。

 問題の所在は明らかであり、信頼回復のために具体的に何を行うかが問われている。

 キーワードは「オープン化・透明化」になるはずだ。「オープン化・透明化」に向けた取組みなくして、信頼回復などあり得ない。

 「情報源明示」の原則の徹底は、もし実行できるなら、読者に目に見えて実感できる「報道のオープン化・透明化」になるはずだ。

 それ以外にも、記者クラブ制度など「オープン化・透明化」をしていくべきところは少なくない(例えば「記者クラブ」はホームページすら存在しない。いまどきホームページを持たない団体・組織も珍しいが、おそらくそういうものを作り、市民社会との窓口になろうという発想自体がないのだろう)。

 再び、藤田氏の言葉に耳を傾けてみよう。

 新聞やテレビが健全なジャーナリズムを支えていくための最大のかぎは、市民のメディアに対する信頼をどこまでつなぎとめていけるかにかかっている。信頼を失ったメディアはジャーナリズムの担い手であり続けることは難しい。そしてジャーナリズムの衰弱は確実に民主主義の危機につながっていく。

 そうした事態に陥ることを避けるためには、メディアが内部から改革を推し進めるほかに道はない。メディアが五五年体制のもとで長く内包してきた矛盾を、自分たちの手で早急に解消することだ。取材・報道の過程をできるだけ透明化し、ニュースの価値基準を見直して、これまでの報道のありようを根本から見直すことである。

ー藤田博司「どうする情報源 ー 報道改革の分水嶺」199頁

 公表された提言が「真の問題」から目を背けようとしたものだと思いたくはない。

 望みがあるのは、「開かれたジャーナリズム」と題した提言原案で、匿名情報に依存する取材慣行・報道慣行をはじめとする「閉鎖的体質」に切り込もうとした動きが、一時とはいえ、あったことである。

 それが一時で終わるのではなく、今日のシンポジウムを起点として持続的に広がっていくことを願ってやまない。

弁護士

慶應義塾大学総合政策学部卒業後、産経新聞記者を経て、2008年、弁護士登録。2012年より誤報検証サイトGoHooを運営(〜2019年)。2017年、ファクトチェック・イニシアティブ(FIJ)発起人、事務局長兼理事を約6年務めた。2018年、共著『ファクトチェックとは何か』出版(尾崎行雄記念財団ブックオブイヤー)。2023年、Yahoo!ニュース個人「10周年オーサースピリット賞」受賞。現在、ニュースレター「楊井人文のニュースの読み方」配信中。ベリーベスト法律事務所弁護士、日本公共利益研究所主任研究員。

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